■人気ドラマの主人公に憧れて目指した料理人の道
料理の世界を志すきっかけはどのようなものでしたか?
桝田氏:
料理人になりたいと考え出したのは、高校2年の頃です。ちょうど進学を考えていたのですが、東京下町の料亭を舞台にしたテレビドラマ「前略おふくろ様」が大好きで(笑)、俳優の萩原健一さんが料理人を目指す青春ドラマなのですが、とてもカッコよくて憧れたのです。
それまでは普通に大学へ進学し、サラリーマンになるのだと思っていたのですが、急に「日本料理の料理人を目指そう!」と考えはじめました。また私の実家は奈良県吉野の川上村というところですが、祖父の代から鮮魚店をやっていました。お祝いや法事のための仕出し料理も出しており、父が包丁を持つ姿を見ていましたから…それに対する憧れも少しはあったかもしれません。
そこで高校を卒業すると同時に、大阪の阿倍野にある辻調理師専門学校で1年間勉強することにしました。
卒業後は修業先をどのようにして決められたのでしょうか?
桝田氏:
最初の修業先は「吉兆」でした。調理師学校の先生に就職の相談をしたところ「吉兆は日本一の料理屋やから」と薦めてもらったことがきっかけでしたね。そして入社後にリーガロイヤルホテルの「吉兆」に配属されることが決まりその店で修業することになりました。(※現在の「神戸吉兆」)。
修業はいわゆる追いまわしから始まる伝統的な修業スタイルで、もちろん厳しかったです。新人から3年目くらいまでの若手は皆、豊中市にある古い小学校の分校を改装した建物で寮生活をするのですが、元教室だった部屋が3つくらいあって、そこに二段ベッドがずらっと並んでいまして…(笑)。
その寮で50名くらいが寝起きを共にする共同生活で、プライベートな空間は一切ない。そして寮から勤務先のホテルまでは、小さな送迎バスに乗り込んで通うのですが、クーラーも無いぎゅうぎゅう詰めのバスで!(笑)。一日中ずっと先輩と一緒で気が休まる暇もなく、「エライところに来てしまったな!」と思いました。
実のところ3日で辞めたい、と思いましたが、地元では盛大に送り出されたあとのことです。田舎を出てくる時にご近所さんから餞別も頂き「都会で修業して頑張ってくるから」と実家を出てきた手前、すぐには帰れないな…と踏ん張りました。
当時の「吉兆」は高麗橋本店と京都嵐山店、東京銀座店、そして船場店とリーガロイヤル店の5店舗だったのですが、さらにお店を増やそうとしていた時だったので毎日とても忙しかったのを憶えています。
そうこうしているうちに2年目に漬物や煮方、3年目に八寸場、4年目には造りの二番手に、5年目には焼物や揚物の一番上の仕事もさせてもらえるようになり、修業は順調でした。リーガロイヤルホテルの吉兆では1980年~1985年くらいまでの5年間修業をしました。
■吉兆と大きく違う、カウンタースタイルの料理割烹へ。
古き良き料亭修業の雰囲気や時代の空気がエピソードからも伝わります。リーガロイヤルホテルの修業後はどのようにされたのでしょうか?
桝田氏:
「吉兆」の修業生活も5年経ち、ぼちぼち次のお店に移って修業するのもいいかなとぼんやり考えはじめてはいました。
実は次の修業先を探すにあたっては具体的な店のイメージがありました。リーガロイヤルで修業している2年目か3年目くらいの頃に、先輩に京都の板前割烹に連れて行ってもらったのですが、その雰囲気がとても良くて、カウンタースタイルのお店で働いてみたいと考えていたのです。
その店はカウンターだけの小さな店で、京都らしく入口で靴を脱いで上がるというスタイルでとてもリラックスできる雰囲気。ご主人と女将さんと若い料理人がにこやかにお客様と接しているやりとりもすごくいいなと。
吉兆は料亭ですからカウンター席がないですし、直接お客様と顔を合わせることが無かったので「いずれはカウンターの料理屋で働いてみたい!」と思うようになったのです。
そして調理師学校でお世話になった先生の所へ遊びに行った時そんな話をしたところ、東心斎橋でカウンターの割烹料理をやっている店の女将さんを紹介して頂けることになりました。
あと5年くらい吉兆に残ってさらに深く日本料理を学ぶのか、新しい店に移るのか…正直とても悩んだのですが、カウンターの店で働きたいという気持ちがありましたので、これは縁かもしれないと考え、思い切ってそちらの店で修業することにしました。
カウンタースタイルは、現在の桝田さんのお店に通じるものがありますね。新しい店での修業はいかがでしたか?
桝田氏:
「榎里」(えさと)という名のカウンターの割烹料理に移ったのは昭和60年。料理長は別にいらっしゃったので、その店の二番手として入りました。吉兆のような料亭とカウンターの割烹料理では、何もかもが全然違いましたので最初はとても戸惑いましたね。
中でも一番難しかったのが、接客しながら料理をすること。吉兆のように決まったコース料理ではなくメニューが全てアラカルトで、まずはお客様に注文を聞かなくてはいけない。お決まりコースでしたら、お客様が来られたら準備してあった料理を作って出せばいいのですが、「今日はこんなものが入っています」と今日のオススメを提案することからはじまります。これは、慣れるまでは本当に大変でした。
また店の場所が東心斎橋の八幡筋という難波寄りの立地で、スナックやクラブ、ラウンジなどお酒を飲む場所が周囲に沢山ありましたので、いわゆる「同伴」のお客様がとても多かったんです。お客様の6割は同伴の方で、残り3割が接待か個人という客層でしたから、様々な気遣いが必要でした。
同伴のお客様は18時過ぎに来られて、「20時には店を出たいから、料理は早くしてや」と仰いますから、とてもスピードが要求されます。短時間の中でお客様にオーダーを聞きつつ、お話しをしつつ、同時に料理もしていきますから、吉兆とは全く違う経験となりました。
カウンターの「榎里」と「吉兆」では提供する料理内容も大きく違いましたか?
桝田氏:
「榎里」と「吉兆」の料亭料理で大きく違ったのは、お椀物がいらないということでした。お酒を飲まれるお客様が中心ですから、造りや揚物、焼物を楽しまれた後は、仕上げにご飯や麺物にいかれることがほとんどで、椀物を注文されることがないのです。
私は吉兆で「日本料理の花はお椀物にこそあり」という風な教育を受けましたので、これには正直ビックリしました。そしてその店で働いてわかったのですが、やはり構成にストーリーがあるコース料理だからこそ、お椀物は活きてくる。温かなお椀物でコースの中盤にほっと一息ついていただき、蓋を開けてお出汁の香りを感じ、季節の具材をしみじみと味わっていただく…そういった構成になっているのです。
その店では最初の料理長の考えもあってメニューはアラカルトのみでしたが、2年後に料理長が独立され、私が料理長になってからは、アラカルトからチョイスした形のミニコースもメニューに追加しました。コースにはもちろん椀物もつけていましたが…残されることも多かったですね(笑)。料理長になってからは吉兆で学んだ料理を取り入れ、メニュー内容も変えていきました。
2年後に料理長になられたのですね。料理長としての仕事はいかがでしたか?
桝田氏:
私が料理長になったのは昭和62年、阪神が優勝した2年後です。ちょうどバブルの絶頂期。店はどこも夜中まで営業していましたし、心斎橋筋なんか人が多くてなかなか前に進めないくらい…毎日がお祭りの様な騒ぎで(笑)、毎日、店も大忙しでした。
そして料理長になって2年目には、店が少し手狭になってきたこともあり、オーナーである女将さんが持っていたあるビルの3階に、店を移転することになりました。
カウンター8席の店が、カウンター10席と3部屋の個室がある大きな店になりましたが、移転後も順調でしたね。「とよなか桜会」の満田君が入ってきたのもその頃で、彼とはその店で8年間一緒に仕事をしました。
平成に入りバブルもぼちぼち下火になりかけていましたが、客層は大きく変わることもなく、接待や同伴は相変わらず多かったです。その後も順調に営業していたのですが、その後、女将さんがご高齢でそろそろ引退したいという話があり、その店を閉めることになったのを機に独立することにしたのです。