■料理教室での気づきが、独立の背中を押してくれた。
自然な流れでの独立だったのですね。独立する店の構想はどのようなものでしたか?
桝田氏:
話は少し前に戻るのですが…「榎里」の料理長をしている時、昼間の時間を使って料理教室の講師をしてみないか?と誘われまして。2年間ほど料理教室の講師をするご縁がありました。
教えることになった教室は二つ。一つは嫁入り前のお嬢さんや主婦が習いに来る、家庭料理が中心の「クッキングスクール」。そしてもう一つが「独立支援センター」という名の、サラリーマンが退職金を元手に、夢だった居酒屋やお好み焼き屋をやりたい…など小さな飲食店をはじめたい方向け、いわゆる「脱サラ」の方向けの料理教室でした。
先ほどお話したように「榎里」に来られるお客様は、同伴や接待が中心で男性客がメイン。店に来られる目的も同伴できた女性とお話することや、週末の接待ゴルフなど…「お酒と話」が中心で、男性の社交場としての役割が大きかったし、料理はどうしても二の次でした。
作った料理が残されることは当たり前でしたし、それが普通なのだと諦めていましたが…やはり料理人として悲しい気持ちもありました。
それが女性向けの料理教室へ行きますと、女性の皆さんが本当に料理を喜んでくださるんです。普段、店で出している料理を作って出すと「これ美味しいですね~!!」と感動してもらえて…。
毎日料理をし、料理の大変さを知っている女性は、料理に対してこんなに素直に喜び、感動してもらえるのか!と気づいたのです。その瞬間、自分の中で料理に対する意識がガラッと変わりました。その経験から「自分で店をやるなら女性のための、女性が喜ぶ店にしたい!」と考えるようになりました。
そしてもう一方の「独立支援センター」での講師としての経験は、別の刺激を私に与えてくれました。
ここでは、まったく料理の知識がない男性が、ある程度の資金で、魚もさばけず、出汁も取れないような状態でやる気だけでどんどん独立していくんです。もう、びっくりしました。正直、「大丈夫なのかな?」と思うような生徒も多かったのですが(笑)。
一方の私は15年も16年も料理修業をしているのになかなか踏ん切りがつかない訳で…。
「僕は一体、何をやってるんやろ」と逆に勇気をもらいました。そのように料理長をやりつつも、昼間は料理教室で教えることで沢山の発見と刺激をもらい、独立への構想が生まれてきたという感じでした。
そして1999年5月、約19年目に独立をすることになりました。当時、39歳でした。
店の場所やコンセプトはどのようにして考えられましたか?
桝田氏:
「吉兆」を出てからはずっと心斎橋で働いていましたから、場所は心斎橋でと考えていました。ただ、女性の方が昼でも夜でも安心して訪れやすいような場所を探しました。今の場所は駅からも近くて、お買い物帰りに寄って頂きやすい場所ですよね?この場所は、イメージ通りだったんです。
メニューに関しては、お昼にとにかく力を入れて忙しい店にしたいと思いました。
料理教室に来られているような女性客を、と具体的なイメージが出来ていましたし、夜はその女性がご主人や職場の人と食べに来てくださるような店にしたい。
そのためには、来ていただきやすいようお昼のメニューを充実させようと考えたのですが、狙い通り、開店当時から沢山の女性のお客様がお越し下さいました。
そして本当にびっくりするくらい、お皿がきれいに空になって戻ってくるのです!
これは料理人冥利につきる、一番うれしいことでしたね。
ターゲットにぴったりとマッチした提案だったのですね。料理も女性客を意識した工夫はされましたか?
桝田氏:
「榎里」の頃は見た目をそれほど重視しませんでしたが、この店をオープンするにあたって「見た目の美しさ、華やかさ」を重視しました。
横長の大きな皿にズラリと盛り付けた八寸や、蓋を取った時の感動がより大きくなるよう大振りの高価なお椀も沢山用意しました。かつて吉兆で教わったことなのですが、やっと日の目を見たという感じでしょうか(笑)。
当時から今もうちの料理で特徴的な、長いお皿に八寸を盛り付けようと思いついたのは、当時テレビ画面がワイドテレビに変わり、横に長い画面は迫力があるなと思ったことと、その頃に凝っていたアクアリウムでも、横長の水槽はとてもきれいに見えることに気づいたことがきっかけ。
うちの店はカウンターに一切段差がなくフラットな1枚板を使用していますが、これもそれらの大ぶりのお皿をスマートに提供できるようにと考えた形なのです。
今で言う、「インスタ映え」のような考え方を当時から意識されていたんですね!メニューについてはいかがでしょうか?
店を始めるにあたって、メニューもアラカルトを無くし、コース料理だけにすると決めました。その当時は豊富なアラカルトを用意するスタイルが流行っていましたので、吉兆時代の先輩に話すと「個人店でコースのみは難しいのでは?」と反対もされました。
しかしアラカルトを沢山用意すると食材ロスも多くなりますし、余った食材がダメになる前にコースに入れよう…という考えになってしまいます。コース料理を中心に売っていきたいのに本末転倒な結果になってしまいますから…アラカルトは一切やらないという決断に至りましたが、それは結構、賭けでしたね。
■先輩の技が完璧にコピーできてはじめて、自分の料理ができる。
桝田さんは沢山の優秀なお弟子さんを輩出されていますが、スタッフ教育はどのようにされていますか?
桝田氏:
特別なことは何もしていないのですが…(笑)。料理の技術云々というより、いかにお客様に楽しんでもらえるか?をしっかり考えて動けるようになってほしいので、そこを注意することが多いです。
そして料理に関しては、いつも「先輩の動きをよく見て、完全にコピーできるくらいになれ」と言っています。
包丁の持ち方や箸の持ち方、盛り付ける時の左手の添え方…など細かな身のこなしや所作に至るまで全てです。ですから長年仕事を一緒にやってきました「とよなか桜会」の満田君なんかは、僕と字までそっくりなんですよ!彼の方がもともと字は上手でしたが、満田君が書いた字を見て「あれ?僕、こんなの書いたっけ?」と自分でも間違えるくらい(笑)。
そんな彼が、今や、教わったことをベースに自分のオリジナリティを発揮して素晴らしい活躍をしていますから…そうしたことはとてもうれしいですね。
あと、店の献立を2週間に一度変えるのですが、私が考えた献立を必ず厨房に張り出すようにしています。そして必要ならば全てを手書きでノートに写して、その料理を自分で再現できるくらいに習得しなさいと言っています。
私が書く献立表は、献立は黒文字で、レシピは赤色、使用する器は緑色、それ以外の注意事項を青色と、4色のペンを使って書き分け、ポラロイドで撮影した料理写真と共に全てファイルにして残してあります。若いスタッフに、どんどん自分のものにしてもらいたいですね。
一昨年に独立した弟子の寺田君も、修業時代にこの店で記録したレシピを参考にしてくれているようで…「おやっさんがやってきたことをそのまま真似させてもらっています!」と言っていました(笑)。彼は手先も器用ですし、発想力がとても豊かなので、すぐに僕を追い抜いて立派な料理人になると思いますね。
ご自分の経験を活かして、お弟子さんのために今も続けられているのですね!いつ頃から献立を記録されているのでしょうか?
桝田氏:
献立を記録し始めたのは、吉兆の修業時代から今までずっと。ですから何十年にも渡る献立の記録が手元にあるのですが…今でも参考に読み返しますし、この記録があったから「榎里」で料理長になった時にも自分で献立を考えることができました。
店で修業している弟子達にも献立の情報を公開して、将来、彼らが自分の財産として使えるようにと考え、ずっと続けています。
今も店には常時、7~8人のスタッフを抱えていますが、「今の子には〇〇が足りない」とは思いません。素直に頑張れる子はしっかりと独立して自分の道を進んで行きますし、優秀な弟子が巣立ってくれることが何よりもうれしい。
彼らが私の技や知恵を沢山盗んで、日本料理を盛り上げてくれることが自分のやってきたことの足跡だと思いますし、これからもそれを楽しみに料理と指導を続けていきたいと考えています。
(聞き手:齋藤理 文:池側恵子 写真:能谷わかな)