厳しい修業を乗り越えた心から一流のものは生まれる
■魚の美しさに魅せられ10代で飛び込んだ料理の世界
料理の世界に進もうと思ったきっかけは?
那佐氏:
僕は徳島の阿南市という漁師町出身で、父はマグロ船の漁師。祖父も漁師という、代々漁師の家に生まれました。だから子供のころから海と魚に囲まれた生活をしていて…。当然、最初にする遊びは潮干狩りだったし、大きくなったら素潜りしてアワビを獲ったり、釣りをしていました。中学生の頃は正直、悪さばかりしていたのですが(笑)その頃から「料理の仕事がしたい」という気持ちが芽生え始めていました。
魚って本当にデザインが美しく、父が錆びた包丁やまな板を使って豪快な漁師料理をするのを見ながら、「この美しい魚をもっとちゃんと料理してみたい!」そんな思いがずっとありました。子どもの頃から父にやってみろと魚を捌かせてもらったりしましたし、料理を作るのも好きでした。
そして中学の頃、食物科のある高校への進学も考えたのですが、勉強は好きでなかったし、高校へ行っても勉強なんてするわけないなと(笑)。それなら一刻も早く料理修業に入って自分の生活をスタートさせよう。そう考えて大阪に修業へ出ることを決めました。
大阪で修業することにしたのは、徳島で就職したら悪友連中が遊びに来てしまうだろうということと、「食は関西」という思いがあったから。当時、中学校には大阪の飲食店から幾つか仕事の紹介がありましたので、何の知識もないまま、親や先生と相談して就職先を決めました。
どのような店で修業をされたのでしょうか?
那佐氏:
最初に修業に入った店は大阪の鶴見区にある「福すし」という庶民的なお鮨屋さんでした。店の2階が寮になっていて、15~6人の先輩や同僚と朝から晩まで一つ屋根の下で、まるで家族の様な兄弟のような修業生活でした。
その店は中卒の若い子を育てていく文化というか、伝統というか…そういう「仕組み」がしっかりとできあがっている店だったので、先輩は僕たちに飯を奢ってくれたり、厳しいけれど可愛がってもくれる。「今度はお前らが後輩におごってやるんやぞ」と先輩に言われながら、礼儀作法や仕事をすべて教えてもらいました。店の社長も一緒になって寮の風呂に入ったり…もちろん厳しく辛いこともありましたが、人にとても恵まれた環境だったと思います。
とてもアットホームな環境だったのですね。修業内容はいかがでしたか?
那佐氏:
もちろん先輩は怖いし、修業はとても厳しかったのですが、同僚が沢山いましたので「あいつには負けたくない」と、毎日がライバルとの競い合いでした。
当時はバブルの走りで、店もすごく忙しかったのでなんでもやらせてもらえました。「練習が本番、本番が練習」という感じで、いきなりカウンターにも立たせてもらえて、1年目から巻き寿司や料理もどんどんさせてもらいました。同僚同士で仕事を競い合っていますから、「人より先に仕事を憶えたい!」とみんな必死。仕事がしんどいとか言っている雰囲気はなかった。結局その店には4年弱いましたが、最終的にはメインの立ちで握るところまでいっていました。
実践で腕を鍛えていくような店だったのですね。
那佐氏:
今思えば、大衆の店だったからこその良さで、もし一流の店に就職していたら全く違っていたと思います。お客さんも大衆の店だったからこそ「こんな鮨、握ってたらあかんぞ!」と文句を言いつつ、若手を育ててくれるような環境でしたし、次に来た時に「お前、ちょっとはマシになってるやんか」と言ってもらえたり…。実践の中でどんどん技術を身につけていった、そんな感じでした。