天ぷらには守りつづけるべき基本がある。正統派を貫く天ぷらの求道者。

天ぷら 京星
榊原 俊徳

■老舗料亭での修業時代を経て、弱冠23歳にして店主に。

ミシュランガイドにて9年連続で一つ星を獲得。さすが歴史ある「京星」ですね。

榊原氏:
いえいえ、とんでもありません。確かに「京星」の名前は三代つづいていますが、京都・祇園の今の場所に店を構えたのは、私の代になってからです。26年前の23歳の時に、右も左もわからないままオープンすることになりました。正直に言ってあらゆることが未熟な状態で店主を務めることになり、本当にいろんな苦労をしてきたと思います。

私の祖父にあたる初代店主が「京星」を開いたのは、昭和22年であったと聞いています。場所は京都の祇園ですが、今の場所ではありません。その後、「京星」は祇園から銀座に移転しています。祖父には8人の子どもがいまして、その中から3人が天ぷら職人になりました。そのうちの1人が長男で私の父、つまり「京星」の二代目です。他の2人の兄弟も銀座で天ぷら店を営んでいまして「七丁目京星」と「由松」という店です。

ですから、私自身は生まれも育ちも東京。高校を卒業するまでは、特に料理の勉強をしたわけでもなく、普通の学校に通っていました。

何歳くらいの時に料理の世界に進むことを決めたのですか?

榊原氏:
はっきりしたことは覚えていませんが、高校でも飲食店でバイトをしたりなどしておりましたし、将来の進路を考える頃には心に決めていました。
ですので高校を卒業したら修業に出ることはもう決まっていまして、今はもうありませんが、「播半」(※1)という兵庫県西宮市にあった料亭が修業先です。

住み込みで働いていたのですが、ここでは本当に厳しく、しっかりとしつけていただきました。
今とは時代が違いますが、多忙な時は朝は4:00に起きて、夜は日付が変わるまで仕事です。睡眠というよりも仮眠に近いような状態でずっと働いていました。

当時はバブル景気の絶頂期。たくさんのお客様がお店に来られて、本当に忙しい職場だったと思います。定休日なんてありません。成人式の日も東京には帰らず働いていました。
18歳から修業していたので、同年代の友達は大学生活を送っているころですが、うらやましいと思うような余裕もありません。ただとにかく、目の前の仕事に追われるばかりの毎日でした。

私は左利きでしたから最初は本当に苦労しました。日本料理の包丁は右手で使うように出来ていますから、利き手とは逆に持たないといけません。桂むきをするにしても、指をボロボロにしながらやっていましたね。
「播半」では、料理の基本はもちろん、お茶も習わせていただくなど、学びの多い充実した毎日を過ごしました。そして修業を始めてから4年が経ったころ、責任ある役割も任せていただけるようになり、「さぁ、いよいよ仕事が面白くなるぞ」という時期に「播半」をやめることになります。

※1
「播半」は創業1879年(明治12年)の関西の老舗料亭。大阪市・西宮市に4店舗を展開した。谷崎潤一郎の小説「細雪」にも登場する料亭として有名。2005年に閉店。

18歳で「播半」に入って、4年後ということは22歳の時ですね?

榊原氏:
実はその1年ほど前に、父が脳梗塞を患って倒れてしまっていたのです。ですがその時は1度目ということもあり、大事には至らず父の体調も回復していきました。ところがそれから1年後に2度目の脳梗塞が発症して、いよいよ調理場に立てなくなってしまい、私が実家に帰らなければいけなくなったのです。

どうしようもない事情ではありましたが、私としてはもっと「播半」にいたかったですね。もっといろんなことを学びたかったですし、その時はまだ自分が一人前になっているとは全く思っていませんでした。まだまだ修業が足りていない未熟なままに「京星」の三代目として店をオープンすることになりました。

父の容体のこともありましたし親戚もこちらに多かったものですから、開業するのであれば京都の方が安心できると思い、両親の出身地である京都に帰ることを決めました。
銀座の店を売りに出して、京都の今の場所に新しい「京星」をオープンしたのが26年前のことです。

これは蛇足ですが、その売りに出した銀座の店の後に入ったお店も奇遇なことに天ぷら屋さんでした。その天ぷら屋さんというのが、いまでは有名なあの「てんぷら近藤」(※2)さんです。

※2:てんぷら近藤
Foodionでも取材させていただいた近藤文夫氏。薄い衣で揚げる手法や野菜を天種にするなど斬新な発想で有名。

■試行錯誤の20代・経営に困窮したバブル崩壊後。

ほとんどゼロからのスタートだったわけですね。

榊原氏:
もう最初は必死でした。天ぷらを揚げていると、お客様と会話する余裕なんてありません。頭の中は天ぷらのことでいっぱいです。料亭だった「播半」での修業では、特に天ぷらの作り方を専門的に学んだわけではなかったので、父の監督のもとで天ぷらの技術を1つずつ学んでいきました。店での勉強だけでなく、素材のことや他の調理についても覚えたいことがたくさんあったので、勉強の場を求めて休日は他の料理屋さんで勉強をさせてもらいました。

技術を学ぶのも大変ですが、経営を考えることも大変だったのでは?

榊原氏:
おっしゃる通りです。銀座から京都に移転した頃、気づけば世の中はバブルがはじけて一気に不景気になっていました。祇園界隈もすっかり寂しくなって、店の経営にも困るような状況です。それでも父が昔の縁をたどって、知り合いの芸子さんや付き合いのある方を店に連れてきてくれました。お客様が、銀座から祇園に「京星」が戻ったことを喜んでくださったのは、本当にありがたかったです。お客様の期待に応えるだけの料理を用意することは、私にとってはプレッシャーでもありましたけどね。

そんな風に、父は父なりに店の経営を考えてくれていたのでしょうが、私はとにかく未熟な腕を何とかしたいと必死になっていました。考えることと言えば天ぷらのことだけ。相当なプレッシャーがあったのだと思います、当時は不眠症にまでなってしまいました。眠れたとしても、夢の中でも天ぷらを揚げているんですよ。絶対にありえない飛行機の中で天ぷらを揚げていた夢は、いまだに忘れられません(笑)。

技術的に満足できるようになったのは、いつ頃から?

榊原氏:
さぁ、どうでしょうね…。今でも暗中模索しているというのが本音です。それほどに天ぷらは奥が深いと言うか、繊細というか…それが面白いところでもあると思うのですが、いまの自分に満足しているというわけではないですよ。あれ〜なんか今日は調子が悪い、という時もあります。

ただ、2010年にミシュランガイドに掲載していただけた時はうれしかったですね。今までの努力が、評価されたと思いました。
「播半」の修業時代から、フランス料理の世界にはミシュランガイドというものがあって、星の獲得はとても価値のあることだと知っていました。でも、当時、日本版はありませんでしたから、自分とは関係のない世界の話だと思っていました。

それが日本でも出版されることになって、初年度から「京星」が選ばれたわけですから、当時の驚きと感動は相当大きなものでした。父が倒れてから22歳で店主となり、経営が苦しい時は店を終えてから祇園で朝までアルバイトをしていた経験なんかを思い出して、本当に感慨深いものがありました。
掲載の連絡を受けた時は「まさか」という気持ちで、理由もわからず涙が出てしまいましたよ。それから9年、おかげさまでずっと星をいただくことができています。

天ぷら 京星

お問い合わせ
075-551-2303
アクセス
京都府京都市中京区祇園花見小路末吉町東入ル 双葉ビル1F
地下鉄「祇園四条駅」から徒歩4分
営業時間
完全予約制
18:00-22:00(L.O.20:00)
定休日
日曜日(祝日は営業)