何者でもない自分だから、もがき続ける

アノニム
加古 拓央
アノニム 加古拓央

アノニム 加古拓央

■憧れた一流フレンチの世界で味わった挫折

まずは、料理に興味を持ったきっかけを教えてください。

加古氏:
たしか小学校の2年生の時だったと思いますが、テレビで見たオムライスを真似て作ったことが、私の中で一番古い料理の記憶です。サラリーマンの父と母、姉の4人家族で育ちましたが、母は兵庫の山奥育ちで洋食のような料理はほとんど作ってくれたことがありませんでした。子どものころから卵が大好きで、炊飯器に残っていた冷ご飯をケチャップで味付けして、卵でくるみ作ったオムライスはおいしかったですね。学校から帰ると自分でオムライスを作って食べてから遊びに行くような小学生でした。

そのうち母の夕食の手伝いをするようになって、一緒に買い物にも出かけていろんな食材を見て回るのが楽しかった記憶があります。母と一緒に過ごせる時間がうれしかったのかも知れません。中学生になると自分で弁当も作っていました。冷凍食品を使った簡単なものでしたが、料理そのものはとても楽しいものだと思っていました。

そうこうしているうちに中学の卒業を迎えましたが、その頃にはすでに料理人になる気持ちが固まっていました。勉強はまったくできませんでしたから、早く料理人になりたいという話を両親にしました。「高校ぐらいは出ておきなさい」という父の声で進学しましたが、すぐに近所で一番高級そうな中華料理屋さんを選んでアルバイトを始めました。もちろん最初は洗い場での仕事しか任せてもらえません。料理なんてさせてもらえませんでしたが、みんなが遊んでいる時間でも自分はアルバイトをしているのが楽しかったですね。

普段から家で洗い物をしていましたから、アルバイト先でも手際の良さをほめてもらいました。他のアルバイトの友達は料理に関心がなかったようで、そのうちに僕には揚げ物も任せてもらえるようになり、周りから「料理人に向いているよ」なんて言われてうれしかったですね。

その頃は中華料理に興味をお持ちだったんですか?

加古氏:
いえ、そういうわけではなくて、むしろ中華はちょっと自分には向かないなと思っていたぐらいです。とにかく大量に油を使いますから、仕事が終わると自分が油臭くて「しんどい」と感じていました。そんな時、同じ商店街にあったパンとカフェの店を見つけて、今度はそこでアルバイトさせてもらいました。パンを焼く香りがなんとも言えず良くて、自分もパンを焼きたいなぁ、なんて思って面接してもらいました。

ところが、その店ではパンを焼いていなくて、いい香りは二軒隣りのパン屋さんからしてくるものだったというオチです(笑)。でも、そこで出会ったパティシエの方からは、とても良い影響を受けました。

普段はおっとりとした中年のおじさんでしたが、ホイップを作っている姿やパフェにアレンジを加えてお客様に出している様子を見て「なんてカッコいいんだ!」とひそかに憧れました。店長にはよく怒られているおじさんでしたが、私は大好きな方でした。パティシエなんて言葉もろくに知りませんでしたが、お菓子やケーキを作る仕事もいいなぁなんて思ってアルバイトしていました。

料理人になるには、まずは専門学校に行かないといけない。勝手にそう思い込んで、辻調理師専門学校に進みました。「調理師免許がもらえれば料理人になれるんだ」と単純に思って入学したのですが、授業の内容は全然頭に入ってきません。実習は良かったのですが座学はまったくおもしろくなくて、座っているだけですぐに眠くなってしまいます(笑)。

学校よりもおもしろかったのは、やはりアルバイトです。アルバイト先は、三宮にあった小さなフランス料理屋でした。その頃はまだバブルな時代で、店はいつも満席でした。シェフを合わせて3人がキッチンで、他に洗い場の担当がいて、ホールは2人で回しているぐらいの店です。15席ほどの大きさでしたが、仕事はとても楽しく、学校は友達と遊ぶところでした。

専門学校ではフランス料理を専攻されていたのでしょうか。

加古氏:
いえ、普通の調理課です。中華や和食、イタリアンなどの勉強もしましたが、まだフランス料理に進むかどうかは決めていませんでした。ただ何となく西洋料理がかっこいいなと思っていただけです。

ある時、専門学校でフランスへの研修旅行が企画され、参加の募集がありました。すごく高かったのですが、5年ローンを組んで参加しました。たしかベニス、フィレンツェ、リヨン、パリを回って、ポール・ボキューズなど三つ星レストランで食事をする研修旅行です。その時に友だちになった同級生たちと、フランス料理っていいよなと話していたのを覚えています。足を運んだ店には、専門学校の卒業生の方が働いていらっしゃって、かっこいいなぁと思いました。その時にフランス料理の道に進むことを決心したのだと思います。

専門学校を卒業して就職するなら、絶対に神戸にしようと決めていましたから、いろんな知人から神戸で一番勢いのある店をいろいろと教えてもらいました。いくつか候補になるレストランがあったのですが、修業するなら絶対に「レストラン コム シノワ」(※1)がいい、と思って面接に伺いました。

※1:「レストラン コム シノワ」
「ビストロ コム シノワ』」で南京町で創業し、その後パン&カフェ、ホテルレストランなど多店舗に展開した。現在は三宮ビル南館にてブーランジェリーとパティスリーとカフェのお店 『コム シノワ』として営業。

神戸の名店で働けることになって、期待も大きかったのではないでしょうか。

加古氏:
「コム シノワ」に就職が決まったことを専門学校の先生に報告に行ったら「とても君では務まらないよ」と言われましたね。全然勉強なんかしていませんでしたら、そう言われても仕方ないのですが、内心では「やってやるよ!」という気持ちです。

3月からアルバイトで働かせてもらって、4月に入社しました。最初はホール係からのスタートです。1年上に4人の先輩がいらっしゃって、そのうちの3人の方と一緒にホールの仕事をすることになりました。パンを焼く係、30人分のまかないを作る係、ホールセッティング係の3つの仕事をローテーションで回していきます。

1年ほど経験に差がある先輩たちは、そつなく仕事をこなしていらっしゃいましたが、私は何をやってもダメ。電話の受け答えもまともにできないし、パンも上手く焼けない。まかないに関しては、せっかく用意してもいつも残されてしまう始末です。不機嫌な様子でまかないを残していく先輩も多く、どうしたらいいのか本当に悩みました。

とにかくガムシャラに頑張るしかないと思うのですが、たくさんの先輩からいろんな仕事をやっておくように言われ、いっぱいいっぱいの状態がずっと続きました。怒られない日はありません。そのうちに仕事がどんどん溜まって、休みの日に玉ねぎの皮むきなどの雑用をしていました。朝の5時に出社して、帰るのは日付が変わった深夜の1時半です。終電には間に合わないので、バイクで通勤していましたが、信号待ちのたびにウトウトと眠ってしまうぐらい疲れ果てていました。

精神的にもかなりまいっていた時、ホールの責任者であるマダムと一緒に買い物に出たことがありました。普段は愛情がありつつも厳しいマダムです。そんなマダムがふと「あなた頑張っているのね」と声をかけてくださいました。すると自分では止められないぐらい涙があふれてきて、気が付くと「もう無理です。辞めさせてください」という言葉を口にしていました。

周りの先輩たちは「急にどうしたんだ?」と言って引き留めてくださいましたが、入社からわずか4ヶ月後の8月にコム・シノワを退職させてもらいました。奇しくも専門学校の先生がおっしゃった通りになってしまったわけです。要するに、私の考えが甘かったのだと思います。先輩たちは厳しい環境も乗り越えてこられたわけですから、自分が甘かったとしか言いようがありません。

何もかも真正面から受け止めすぎてストレスにしてしまったのも良くなかったと思います。もう少し力を抜くというか、楽をすることも覚えて良かったのかも知れませんね。

あの当時はわかりませんでしたが、何年も経ってからコム シノワの荘司シェフ、マダムからお話頂いた言葉の意味を理解できたりしました。僕が店を去ってから月日がたった今も、シェフやマダムとは交流があります。荘司シェフは、今日も現役で夢を描き続けてらっしゃり、その姿勢から色々なことを教わっています。

アノニム 加古拓央

■忘れていた青春を取り戻す楽しい日常のさなかに経験した震災

思わぬ形で挫折を経験されましたが、その後についても教えてください。

加古氏:
ブラブラしていても仕方がないので、専門学校時代のアルバイト先だったビストロで夜に働かせてもらいました。昼は別のイタリア居酒屋でアルバイトです。それまでの職場に比べると仕事はとても楽でした。周りには同年代の女子大生のアルバイトがいて、簡単なオムレツを作ったりすると「すごい!」と言って喜んでくれます(笑)。

しばらく止まっていた青春を取り戻したように楽しい毎日で、よく遊びにも行きました。でも、心の中は決して晴れやかではありません。遊んでいても、むなしい気持ちがよみがえってきます。「もう一度、きちんとフランス料理を勉強したい」。そんな思いが日に日に強くなっていきました。

しばらくすると、アルバイト先のビストロのシェフが交代することになりました。新しいシェフは若く料理にもとても詳しい方です。この人のお世話になって学び直したいと思って、アルバイトから社員登用していただきました。年をまたいで新年から新しい体制でビストロを運営していくことになったのですが、その時に神戸で震災が起こりました。

ちょうど私たちの成人式の翌日でした。店は全壊してしまいましたが、みんなが無事だったのは幸いです。私の家族も無事でしたが、とても仕事どころではありません。それからしばらくは、誰もが茫然と過ごしていたと思います。

成人になったばかりの私は若く、あまり痛みもわかっていませんでしたが、東京や大阪で就職していた友人たちが「仕事がないならこっちで働かないか」と誘ってくれました。でも私はやっぱり神戸が好きで、よその土地に出ていく気持ちにはなれませんでした。

神戸で働きたいと思っても、料理の仕事はありません。その代わりにあったのが、解体の仕事です。震災の後片付けの仕事がたくさんあり、若くて体力もあった私にはうってつけでした。そうこうしているうちに、半年ほどすると神戸の街にも復興の兆しが見えてきました。商売人の方々は、1日でも早く立ち上がろうと頑張っていらっしゃったのを鮮明に覚えています。

アルバイト先のビストロも、新たに洋食屋として再開することになりました。まずはシェフが洋食を手掛けるわけですが、その方はあくまでもフレンチのシェフです。洋食メニューに関しては若い人にやらせたいとのことで、私が任されました。二十歳そこそこでシェフの真似事のようなことができるわけですから喜んで引き受け、チキンカツやエビフライといった料理を作って過ごしました。

当時はみなさんが大変な思いをされていたのですね。

加古氏:
店も仮設の電源を使って営業していたので、電力が安定せずに苦労しました。誰もが地に足がつかず、ふわふわとした状態で生活している状態でしたが、それでも料理を作る仕事には楽しさを感じていました。

洋食屋の仕事をしながら料理の本を見てはフランスのお菓子を作ってみたり、バターソースづくりにチャレンジしたり、本格的なフランス料理を手掛けたい気持ちが募っていきました。日々の生活は楽しいのですが、目の前の楽なことに飛びついているだけではないだろうか。心の中にはずっと「コム・シノワ」の仕事を途中で投げ出してしまった後ろめたさがありました。

せっかく一流の店で修業できるチャンスがあったのに、今はまったく違う場所にいて、居心地の良さを感じている。なんとなく落ちこぼれてしまったような気持ちで、もやもやが晴れません。自分がやりたかったのは、凛とした空気の中で、緊張感を持って料理と向き合う仕事だったはずです。やっぱりもう一度フランス料理を勉強したいと思って、洋食屋は辞めさせてもらうことにしました。

「辞めてどうするんだ」と言われて、思わず口をついて出たのが「フランスに行ってきます」という言葉でした。

それで本当にフランスに行くことになったんですね。

加古氏:
フランスに料理修業に行くと言えば、みんなも喜んで送り出してくれるわけですから、思わず言ってしまいました。言った後に「どうしよう…」と焦りましたが、もう後には引けません。

仲介業者にお金を払って、働ける先を探してもらいました。そうして21歳の4月に、フランス南西部のランド県にある一つ星レストランに向かいました。

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