Foodion │ 一流シェフ・料理人のプロフェッショナル論。

先代の想いを受け継ぐ責任感と、お客様にとってのいつもの味を大切にする使命感

湖月
佐藤 重行
東京・青山。にぎやかな青山通りからほんの少し入った場所にある「湖月」。引き戸を開けて踏み入れる店内には、カウンター8席と掘り炬燵式の個室座敷。先代が1967年に構えたというこの料理屋には、2008年より連続でミシュラン2ツ星を獲得していながら、肩に力の入らない和やかな雰囲気が漂う。2代目店主・佐藤氏は、老舗日本料理屋で修行したのち、青年海外協力隊として海外派遣生活を送ったという異色の経歴の持ち主。これまでの料理人としての道のりから料理に対する想いまで、語っていただきました。

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■アルバイトをきっかけにフレンチから和食志望に転向

料理人を目指そうと思ったきっかけは?

佐藤氏:
高校2年生くらいの時には、料理人になりたいとすでに決めていました。昔から授業中に寝てしまうダメな生徒で(笑)、デスクワークの仕事に就くのは無理だなと思っていました。漠然と、将来は職人になるのだろうなと考えてはいたのですが、料理を目指すきっかけとなったのは、ラーメン屋で読んだ『ザ・シェフ』*1という料理漫画。飛行機が無人島に不時着するのですが、乗り合わせた天才シェフの力によって乗客が生き延び助かるさまが描かれていて。これなら自分も生き残れるぞ!と(笑)。その程度の単純な動機でした。

出身は埼玉県ですが、高校卒業後は、大阪・阿倍野の辻調理師専門学校にいきました。当時、辻調理師専門学校の東京校はまだなかったのですが、服部調理栄養専門学校はありました。でもどうしても一人暮しがしたくて、親のスネをかじって大阪の学校に行かせてもらいました。大阪に住むことに不安はまったくなく、むしろ大阪の雰囲気が肌にあったので、とても楽しかったです。

 

いつごろから「和食」の料理人を志したのですか?

佐藤氏:
じつは、専門学校入学当初は、フレンチの料理人を目指していました。お小遣いを稼ぐために、時給の良さで選んだアルバイト先が、たまたま高級なおでん屋で。今はもうないと思いますが、「花水木」という名前のお店で、「大和屋」で煮方をされていた方が料理長でした。当時、「大和屋」は「吉兆、大和屋、なだ万」と三つ並べて言われるほど名を馳せていましたから。フレンチよりも日本料理の方がええんやぞ!って言われて。かなり影響を受けました(笑)。

「花水木」では大きなカウンターに一升瓶がずらっと並べられているのが壮観でした。たくさんある地酒から、お客さんが飲みたいものを選べるお店でね。27、8年前くらいのことですが、当時で地酒のラインナップが充実したお店というのはとてもめずらしかったと思います。枡の中に1合の半量入るワイングラスを入れて、一升瓶から日本酒をこぼし注ぐスタイルで提供していて。おしゃれでしたよ。

春にスタートしたアルバイトは1年間続けました。もう夏を過ぎたころには、日本料理をやろう!と心に決めていました。作り出される料理がとても綺麗だと感じたのが一番の理由です。フランス料理のことも綺麗だと感じたかもしれませんが、いま思えば、料理が作り出される現場を日々目の当たりにしていたので、その美しさがより印象に深かったことが大きかったのかもしれません。

 

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■日本料理界の最高峰「吉兆」で6年間の修行時代

専門学校卒業後の就職先は「吉兆」だったのですね。

佐藤氏:
専門学校時代はアルバイトばかりやっていましたが、授業には必ず真面目に出席していました。座学の授業で寝てしまうこともありましたが…(笑)。秋に始まった就職活動では、日本料理店を探しました。

最終的には、辻調理師専門学校の学校推薦枠で吉兆グループに就職しました。学内選抜をクリアすれば就職できるのですが、私は皆勤賞なのに学校推薦枠の補欠だったので、就職が大丈夫かどうかはずっと不安でした。まわりのみんなが10月〜11月には就職先が決定しているというのに、私だけはそれからさらに1カ月ほど遅れて内定をもらいました。

 

名高い高級料亭「吉兆」での修行生活はスタートから順調でしたか?

佐藤氏:
「吉兆」は大阪・高麗橋で入社式をするのですが、入社式の会場に行くまで配属先が知らされていなくて。配属先が東京だとわかった入社式の直後に新幹線に乗って東京へ移動しました。新橋駅で下車したらちょうど雪が降っていて、これから先は恐ろしいなあ…なんて気分になったことを鮮明に記憶しています。

東京の「吉兆」の調理場には夜到着して、スーツ姿でそのまま洗い物をやりましたよ。同じタイミングで「吉兆」に入社したのは100人もいなかったはず。途中で辞めてしまう人の数も見越して、多めに採用していたと思います。ちょうどバブルが崩壊する年でしたね。

同じ店舗に配属された同期は6人。最初の1週間で半分に減るなんて言われていましたが、6人いた同期のうち、1年で1人しか辞めませんでした。

 

「吉兆」の創業者は日本料理に多大なる貢献をされた湯木貞一さんですが、交流はありましたか?

佐藤氏:
「吉兆」は関東と関西に何店舗もありました。湯木さんのことを、私たちは「大御主人」と呼んでいたのですが、東京に来るとたいてい1週間くらいは滞在されていました。

入社当時のことで懐かしく思い出されるのは、大御主人の寝る前に足を揉む当番制のお勤めのこと。お泊まりになっている部屋に仕事を終えた新人が出向いて、足を揉むのですよ。ただね、その部屋がとても暖かくしてあって…BGMは長唄で…仕事の疲れもあって、揉みながらうとうと寝そうになって…カクンとすると「こらっ!」と怒られてね(笑)。今はそんなこともないと思いますが、昭和の頃はそんな感じでした。

恐れ多くて、話はほとんどできませんでした。部屋にはもうひとり先輩で付き人をされている方がいましたが、私などはまだ1年目なので、質問するのもおこがましい感じで。言われたことに答える程度のやりとりだったと思います。

 

6年間の「吉兆」での修行生活では、どんなことが一番大変でしたか?

佐藤氏:
「吉兆」での修行は厳しかったと思います。計6年間在籍しましたが、銀座店に2年間、その後は伊勢丹の店舗(補足:伊勢丹が食堂街を新装して「正月屋吉兆」が出店していた)で4年間でした。

大阪に本拠がある「吉兆」ですが、銀座店は「東京の本店」のような位置づけでした。使っている器も、しつらいも、食材も、客層も、とにかくすごかったです。でも、私は仕事をやらせてもらえないことがすごく嫌で、店を辞めたいと思っていました。銀座店では器の係をさせてもらっていたのですが、調理場に立つことを許してもらえなくて。

1年経ったら担当を代えてもらえるはずだと期待していたら、主人にまだだめだと言われて。嫌だ、もう嫌だ…そんな気持ちばかりが募っていきました。料理長に、料理の勉強をしにきたのにこのままの毎日が続くなら辞めてしまいたいと直訴したところ、伊勢丹にある店舗に行けと言われたのです。

伊勢丹店はオープンしたばかりで。とにかく忙しかったです。もともとスタッフの人数が多くないうえに、スタッフが辞めて欠員が出たりもして。料理長も、働いているスタッフも、みんな若くて。そこでは水を得た魚のように、がむしゃらに働きましたよ。百貨店のテナントなので、朝7時以降入店・夜24時退出という制約がありましたが、制限時間内めいっぱい店にいました。仕事をいろいろやらせてもらえて、毎日が刺激的でしたね。

伊勢丹店にいた4年間のうち、オープン直後の1年間はめちゃくちゃな忙しさでしたが、残りの3年間は落ち着いて仕事をすることができました。

湖月

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