料理はラブ・ストーリーのように情熱的なもの

Ultraviolet by Paul Pairet(ウルトラバイトレット)
Paul Pairet(ポール・ペレ)

Ultraviolet by Paul Pairet(ウルトラバイトレット) Paul Pairet

画像提供:Ultraviolet

■サマーキャンプでも狂人健在、そしてキッチンの外に追い出された

学生を終えた直後は何があったのですか?パリで料理の世界にすぐにはいったのですか?

ペレ氏:
兵役前、シェフとして、サマーキャンプに入りました。友人のクラウドと共に厨房を担当しました。
そこで私の料理人としての情熱が爆発しました。自分でもそこまで真剣に料理に取り組むことになるとは思いもしませんでした。そこで初めて、自分が料理が好きなんだ、と知ることができました。

当時私は「ラルース料理 大辞典」という料理のテキストと料理学校で使っていたキッチンセットを持ってキャンプに入りました。

サマーキャンプの一ヶ月間、私たちは1日17時間キッチンで働きました。私たちのテントからたった200mのところには、ビーチがありましたが、ビーチには見向きもしませんでした。

サマーキャンプでは、誰も見たことない料理のレパートリーを披露しました。
私はカスレを作っていました。通常は乾燥した豆を使うのですが、私は市場から新鮮な豆を買いに行き、一から乾燥させました。(カスレ:豚肉のコンフィ、ソーセージ、羊肉などを白豆と共に長時間煮込んだフランスの郷土料理。)豚肉の調理についても既成品ではなく一から豚肉を調理し、コンフィにしていました。当時の私は料理のすべてのプロセスを自分で実践したかったのです。

もちろん、いくつか失敗もしました。ビュッフェに大きなハムを出そうと思った時のことでした。市販に売っているハムではなく、一晩ゆでて前日に出来上がるように作っていたのです。しかし、熱いハムの上に焼成前のパイ生地をのせてはいけないことを知らずに乗せてしまい、パイ生地は溶けて使い物にならなくなりました。これは本当に失敗でした。
それでも最後には、私たちの頑張りにみんなが拍手を送ってくれました。

とにかく料理に夢中になった一ヶ月間でした。
最後に私たち7月チームと8月チームが入れ替わりのために一緒になったのですが、8月チームは缶詰とトマトのラビオリとその他ベーシックな豆の缶や冷凍食品と共にやってきました。私たちが頑張りすぎたせいで、8月チームの料理は不評だったと後で聞きましたね。

そのひと月があなたに多くの影響を与えたのですね。その後のキャリアについて聞かせてください。

ペレ氏:
その時私はパリの「ラ・メゾン ブランシュ(La Maison Blanche)」に行きたいと思っていました。(ラ・メゾン ブランシュ:パリのシャンゼリゼ劇場の屋上にある有名なレストラン。)そこで働いていたとあるシェフは多くのトレンドを起こしていました。私が出会ったシェフの中でも、最高に料理を見る目を持つ人物の一人なのではないかと思います。
当時、彼がやっていた仕事はとても美しかった。だから、私はそこに行くと決め、ドアを叩いたんです。そして「シェフに会えますか?」「あなたのもとで働きたいんです。」と言いました。

しかし、結果的に私がそこにいたのは、たった3か月だけでした。
パリにはいくつか厳しいことで有名な厨房がありますが、私がドアを叩いた所は最も厳しいと言われる厨房のひとつでした。当時の私はそのことを知りませんでしたが、少しするとそのように呼ばれている訳がよく分かりました。

どうしてですか?

ペレ氏:
私は追い出されました。追い出されてしまったんです。その後しばらく落ち込みましたね。
そこでの仕事は朝8時に始まり、終わるのは夜中の1時か1時半でした。食事のための休憩が1回1時間だけ。その他の時間はずっと働き、ただ家に寝に帰り、また仕事に戻るという日々でした。

今振り返るとシェフとしての最初の経験としては、とてもきつかったと思います。キッチンにはそんなに多くの従業員はおらず、そしてシェフはミシュランの星を持ち、80席ほどをまわしていました。そして私は一番の新人だったので、雑用はすべて私が行っていました。
そこでプロの世界と学校との違いを学びました。私の仕事は野菜をダイス切りにしてバケツをいっぱいにすることでした。誰もやりたくない仕事です。

そしてキッチンにスペースがなくなると、私は外に出されて仕事をしなければいけませんでした。そこには小さな庭があり、時間を見つけてはそこにいきました。

このレストランを首になった原因、私がきれいにアイスクリームを盛り付けすることができなかったからです。デザートを完成させるためにチョコレート・アイスクリームのバスケットを渡されましたが、私は上手に出来ず、シェフは見ているし、私はとても焦っていました…。シェフはとても怒り、私はやる気をなくし、追い出されてしまったのです。
今は私が誰よりも上手にアイスクリームを盛り付けることができるのは、この時の経験があるからです(笑)

Ultraviolet by Paul Pairet(ウルトラバイトレット)

画像提供:Ultraviolet

続けていくために、インスピレーションを得ること、自信をつけること

多くの人々はそのような経験をすると料理の世界を去っていきますが、あなたは続けていますね。

ペレ氏:
私は、とあるシェフに出会いました。彼は良い料理人でした。彼は、彼の実力とは不釣り合いなレストランで働いていました。ミシュランの星もなく、それに相当するものもなけれど、フランスでは昔から有名人でした。

彼のレストランは毎晩満員で、雰囲気もある不思議な空間でした。私はそこで多くを学ぶことが出来ました。例えば、魚の三枚おろしの仕方。それを教えてくれたのは、ヘッド・ウエイターの男性でした。
ヘッド・ウエイターの男性はパキスタン出身で、魚屋でしたね。パリでヘッド・ウエイターといえば、働き者。沢山の下準備をこなしているイメージですが、彼は魚のプロでした。彼以上に魚をよく知る人物を私はいまだに知りません。

彼はサーモンと大きなナイフを手に取り、一挙にシュッシュッ、ひっくり返して、シュッシュッという具合に完成させました。ここで学んだことは、若いうちは上を目指してハイクラスな職場に行くのも面白いけれど、もっと小さい厨房で学べることも多くある、実際に経験を積むのには、小さい職場の方がたくさんチャンスがある、ということです。前の3カ月で失った自信をここで少し取り戻すことが出来ました。

ここから、あなたは「ダニエル・ブラスター(Daniel Ballester)」にたどり着いたのですね。

ペレ氏:
「ダニエル・ブラスター」では、あるシェフが私に影響を与えてくれました。彼はとても良いシェフで、時々とても面白いことをやってくれました。
彼のレストランは、とても成功していました。ガストロノミーを一般層のお客様にも広げたレストランの一つです。アラカルトメニューが充実し、値段が一律な上にリーズナブル、ミシュラン一つ星レストランに比べると3~4倍は安い値段でした。

150人のお客様がぎゅうぎゅう詰め。日曜日には何百人ものお客様をさばかなければいけなかったのですが、その職場は良いチームとなっており、スピードとクオリティの両方がそろっていました。何よりのトレーニングになったと思います。

私がそこを去るとき、シェフは私にパリでのポジションを見つけてくれました。どこだと思います?「ラ・メゾン ブランシュ」で部門シェフとして働かないかと。まさに私が初めてドアを叩いた所です。もちろん、私は行きませんでした。

最終的に、私は「デュケノア(Dusquesnoy)」で勤務ポジションを見つけました。とても良い二つ星のレストランです。でもそれも私の小さな後悔のひとつです。
本当はその時に私が行きたかったのは「アラン・パッサール(Alain Passard)」でした。なぜならとても前途有望なレストランだったからです。

アラン・パッサールは「アランサンダース(Alain Senderens)」で働き、その後「アルページュ(Arpege)」で修業していました。
私は「アルページュ」でランチとディナーをとりました。とても高かったですが、彼の料理はパリで一番面白いと思いました。食事を終えてから、彼のところに立ち寄ると、彼は快く歓迎してくれました。彼はいつも長いエプロンをしていました。私たちは少しだけ話をして、彼は「もしポジションに空きが出たら、知らせるよ」と言ってくれました。

「デュケノア」からとても多くの推薦をもらっていたので、その1週間後に遂に私はオファーを断ることが出来ませんでした。私はこれが運命だと言い聞かせて「デュケノア」に行きましたが、なんとその一週間後、「アラン・パッサール」から連絡があったのです。「アラン・パッサール」に行かなかったことは、今でも私の後悔する出来事の一つです。

「デュケノア」のキッチンはいかがでしたか?

ペレ氏:
そこのシェフはちょうど禁煙を始めたばかりだったようで、シェフは常にイライラしていていい雰囲気ではありませんでした。そこのキッチンには6,7人がいましたが、シェフは「早く!アスパラガス!早く!」っと常にスタッフを焚き付けていました。

私は25,6歳で部門シェフのポジションでしたが、私はそこを6カ月後には退職することになってしまいました。
なぜそんな事態になったかというと、シェフは私がつくるスクランブルエッグが気に食わなかったからです。
私はホテル・スクールでスクランブル・エッグの作り方を学びましたが、彼はそれは気に入らなかったようで、怒っていました。そしてシェフは私にフライパンを投げつけたのです!3層の銅で出来たフライパンを、ですよ。頭で受ければ、間違いなく死にます。私は熱い別のフライパンを手に取り、頭を守りました。ハッ!ってね(笑)

Ultraviolet by Paul Pairet(ウルトラバイトレット) Paul Pairet

■別のキッチンからシェフのポジションへ

そしてパリの「ラ・ターブル・ダルモニ(La Table d’Harmonie)」ではシェフとして働くことになったのですね

ペレ氏:
初めてのシェフとしての経験で、とてもタフな仕事でした。そこではキッチンに2人しかいませんでしたので、そんなに多くの選択肢はなく、出来ることからとにかくやっていくしかありませんでした。チームを持った今では、あの時のようなことは出来ませんね。

私はレストラン「ダニエル・ブラスター」を参考にし、あまり複雑でないメニューを作りました。有名なシェフの料理を取り入れたりもしました。それはブリオッシュの生地に、牛肉とマッシュポテトをのせたパルマンティエという料理です。(パルマンティエ:フランス語で羊飼いのパイ。フランスでは非常に一般的な家庭料理の一つ。)
冷蔵庫から取り出した後、とても強いオーブンに入れ、250度ほどで20分焼けば完成です。オーブンから取り出すと、その至ってシンプルなポテトケーキは、私に大きなインスピレーションを与えてくれました。

北ヨーロッパの影響を受けたというこの料理は、とても味わい深く、美しくて、心動かされるものでした。

「ダニエル・ブラスター」でシェフが成長された他のエピソードはありますか?

ペレ氏:
私が初めて評価されたのは「ダニエル・ブラスター」で私がスタッフのためにまかないを作ったときでした。スタッフに料理を作るのはとても面白いものです。そのとき私が作った料理は、忘れられないものになりました。少なくとも私自身にとっては。たぶん他のみんなも忘れていないんじゃないかなぁ。

その料理は牛タンのパルマンティエです。スタッフ全員に大好評でした。その日から、他のスタッフから良いシェフだ、と思ってもらうことができました。良い思い出ですね。いつかまたその思い出のパルマンティエを「ウルトラバイオレット」で出せたらと思います。

「ダニエル・ブラスター」のメニューには、アンドゥイエットがありました。(アンドゥイエット:フランス語で豚の腸詰のソーセージ。)私はそれを一から作っていました。トリュフ入りアンドゥイエットを作るのには3日かかりました。3日ですよ。
フランスで最も良いシャルキュトリー(ソーセージ・ハムなどの肉の加工職人)の一人と一緒に特訓しました。腸を全てきれいに洗い、繋げて、長い間蒸し煮にし、保存するためにコンソメをゼリー状にするんです。そうして100個のアンドゥイエットが出来ました。もはや、何故そんなに沢山のコンソメとゼリーを作ったのかは覚えていないですけど、もうたくさんですね!(笑)しかしこれも料理の美しさ、楽しさです。

「ラ・ターブル・ダルモニー」の話に戻りますが、あなたは以前にとてもきつい期間だった、と言っていましたね。

ペレ氏:
泣いたことを覚えていますね。怒りや悲しみではなく、ただただ自然に私の身体から涙が溢れてきたんです。
原因は極度の疲労でした。私は疲れすぎて泣いていたのです。一日が終わると、汗と涙が一挙に噴き出るように出ました。

私はバイクで通勤していましたが、とても疲れていたある日、事故に遭いました。夜も明けそうな時間で雨が降っていました。私は車を避けようと道路をスライドし、猛スピードでぐるぐると回転しました。大事には至りませんでしたが、目の前で、私の愛車はダメになりました。

Ultraviolet by Paul Pairet(ウルトラバイトレット) 内観

Ultraviolet by Paul Pairet(ウルトラバイトレット)

お問い合わせ
---
アクセス
uvbypp.cc
Undisclosed
営業時間
Dinner
定休日
Tuesday to Saturday