■フレンチのコックに憧れホテル入社、命じられたのはウェイターの仕事。
ソムリエの道に進まれたきっかけは?
岡氏:
もともとは料理人を志して高校卒業後、リーガロイヤルホテルの前身である新大阪ホテルに入ったんです。1935年(昭和10年)に開業したホテルなのですが、私が入社したのは、ちょうど今のリーガロイヤルホテルの新館が建設中の頃。万博が終わり賑わいも落ち着いた大阪のまちに、1600室の大規模ホテルが誕生するぞ、とまさに歴史的なオープンを2年後に控えた時期でした。
僕らの時代は、フランス料理が一大ブーム。テレビの料理番組も、これまでは割烹着を着用した料理学校の先生なんかが家庭料理を教えてくれるのが定番だったのが、一流ホテルのシェフが登場してきて、背の高いコック帽に、コックコート…かっこいいわけです。フランス料理なんて食べたことなかったけど、自分もコックに憧れて。フランス料理といえばホテルだろうと、中でも老舗で歴史のあった当社を志望しました。
フランスの世界への憧れから、コックを目指して入られたわけですね。
岡氏:
しかし晴れて入社したものの、コックにはすぐなれません。何せ100名入社したら90人はコック志望…という時代ですから、先輩方を含めて既に待機組がいるわけです。それで2年間はウェイターをしてサービスを学びなさいと命じられたんです。
コックという職業は、縦社会で力仕事もあって男らしいイメージでしたが、正直ウェイターは逆の感想を抱いていました。高校の頃はトラックの荷降ろしだとか力仕事ばかりしていた僕にとって、ウェイターなんて男の仕事じゃないと決めてかかっていたんです。
なにせ当時は看板スターを次々と世に送り出した日活映画がブームとなった時代。揉め事が起きるのはクラブやバーがお決まりのパターンで、悪の手先は必ずバーテンダーかウェイター(笑)。物語の設定とはいえ、当時「こういう仕事だけはしたくない」と心に誓っていた職業だったんです。
そんな岡さんが、今やサービスを司る職業に就かれています。
岡氏:
結局僕は、ウェイターという仕事が何かというのを知らなかったわけです。僕の中でのウェイターのイメージは、「ただ単純に料理や飲み物を配膳する人」でした。
でも最初に配属された東京の小さなホテルで、ウェイターをするうち、意識が変わり始めました。最初の頃、外国人のお客さまのオーダーに焦って先輩にヘルプを求めたら、「コーヒーのお代わりでございますね」と英語でスマートに対応されて。すごい!と思いましたね。タキシードを着て、蝶ネクタイを締めて、何かかっこいいぞ、と。これは、悪の手先じゃないぞ(笑)と、サービス職の何たるかに気付き始めたのです。
■尊敬できる先輩に恵まれ、ウェイターの仕事を極めていく。
岡氏:
ありがたいことに、志の高い先輩方にも恵まれました。「海外でサービスを学ぶ」という宣言通りイギリス行きを果たした先輩や、レストランサービスの専門スクールを卒業したウェイターの先輩に可愛がっていただいて。みんなでお金を出し合って、周辺の有名一流ホテルの食べ歩きをしたりしました。
貴重な経験としては、リーガロイヤルホテルと契約している配膳会社を通じて、帝国ホテルの宴会場のヘルプスタッフとして働けたこと。美しくスピーディなサーバー使いは非常に勉強になって、自分も負けないように必死でくらいつきました。
非常に濃密な1年半だったのですね。
岡氏:
それで徐々に、ウェイターの仕事っておもしろいなぁと。あるサービスの先輩には、「これからワインの時代が来るから、お前も勉強した方がいい」と勧められたりして。かつて一番イヤだと思っていたバーの仕事も、尊敬できるバーテンダーの先輩に巡り合えて、シェーカーの振り方からカクテルの作り方までいろいろ指導を受けました。東京に来たことで仕事に集中できましたし、みっちり教えてもらえることで上達もはやく楽しかったですね。
その頃は館内にいれば3食ありつけた時代でしたから、夜遅くなった時は泊まり込んで夜と翌朝のご飯代を浮かしながら、ワインのこととか全然分からなかったので本を買いました。柴田書店の「ワインと知識のサービス」という本で、確か2800円。当時の初任給が2万8000円ぐらいですから、20歳そこそこの年頃を考えると頑張って捻出した額だったと思います。
まぁ、といっても最初は内容が難しすぎて全然分からず、枕替わりにちょうど良いなと思うぐらい、モノにしていくには時間がかかりましたけどね。