料理人として染まりきっていなかったからこそたどり着けた「鴨料理」

河内鴨料理 田ぶち
田渕 耕太

■居酒屋の店長として飲食業界に関わる

今回はFoodion初の試みとして、女将さんにも同席いただき、お話をうかがいます。まずは、ご主人が料理人を志したきっかけを教えてください。

ご主人:
初めて料理に関わったのは、高校生時代のアルバイトです。その頃から大人の人たちがお酒を飲みながら食事を楽しむ飲食店で働くことに興味があって、居酒屋でアルバイトをしていました。学校が終わったらすぐに家に帰って着替えて、そのままバイト先に行くような生活です。

実家は小さな町工場を経営していて、父からは家業を継ぐように言われていたのですが、飲食店で働くことが大好きで、家業を継ぐのは嫌だな、と漠然と思っていました。それでも父の希望を無視するわけにもいかず、卒業後は父の会社に入社する形で家業を手伝うようになりました。

2年ほど経った時に神戸の震災があり、父の工場も被災し会社も住む家も何もかもがなくなってしまいました。
被災し家業もなくなりと大変な時でしたが、それでも生きていくために働かなくてはいけません。
私自身は、その後しばらくは大阪や神戸でアルバイトをしながら過ごしていたのですが、ある時偶然、三ノ宮の街で高校時代にお世話になった居酒屋のオーナーと再会したのです。

いろいろ話をしているうちに、もう一度社長のところでお世話になることになり、居酒屋チェーン店の社員になりました。それがちょうど20歳の時です。それが飲食業界に進むことになるきっかけとなりました。

その会社では、どんな仕事を経験されたのでしょうか。

ご主人:
最初から厨房に立たせてもらい料理をしていました。料理そのものは、とても楽しかったです。居酒屋、すし屋、焼き鳥屋など、いくつもの業態を手掛けている会社でしたから、社長と一緒に新しい業態の店舗開発をしたり、メニューづくりにも携わり、仕事仕事で本当に忙しい毎日でした。

当時は、今と違って若い人もお酒を飲んでくれましたし、お客様も多かったと思います。バブル後で震災もあり、決して景気は良くなかったと思うのですが、飲食業界は結構にぎわっていました。

その会社では人材の採用、育成も上手くできていて、学生バイトから社員になる子もたくさんいました。飲食の仕事は楽しかったのですが、その頃から30歳ぐらいになったら会社を辞めるつもりでいました。
私の後釜になる若い世代を育てて、あとは彼らに任せたいなと思っていたのですが、気づけば店長になり、店舗開発の仕事も任されるようになって、なかなか抜けられないという状況でした。ちょうどその時、アルバイトをしていたのが妻です。

女将さん:
その頃の私は美大生でデザイナーを目指していた学生でした。学校に通いながら主人がいた居酒屋でアルバイトをしていました。大学卒業後に東京に出てグラフィックデザインの仕事について、離れていましたが主人とは友人としてずっと交友はありました。

多店舗展開の企業で修業されていたのですね。

ご主人:
修業といってもお店の店長ですから。他の料理人のみなさんとは違って、私には料理修業させてもらったという経験がほとんどありません。ほとんど独学ですし、あると言えば、店舗開発やメニュー考案の参考のために、他の店でその料理について指南してもらった程度です。

いろんな業態の店舗開発に取り組んでいましたから、フランス料理の仕込みを手伝わせてもらったり、肉の扱い方を教えていただいたり。忙しくしている店があれば、スポットで手伝いにいって、料理の専門的なことが分からないなりになんとかやっていました。大変な部分もありましたが、料理を教えていただけること自体はとても楽しかったです。

そんな風に忙しくしていたころ、盲腸の手術のためにしばらく会社を休むことになったのです。入院するまでは、自分がいなければ店も会社も回らないと思ってやってきましたが、いざ自分がいなくなっても、店も会社もそれなりに回っていました。自分がいなくてもなんとかなるもんだと思ったことが、退職のきっかけになりました。

■独学で研究した料理。行き着いたのは、究極の鴨・河内鴨

それから独立に向けた準備に入られたわけですか?

ご主人:
実はですね…。私はバンドマンでして、学生のころからずっとバンド活動をしていて、店長時代の仲間と一緒に音楽をつくっていたんです。
その頃には年齢も30になっていましたが、私たちのバンドがレコード会社と契約して、デビューすることになったのです。まさかそんなチャンスが自分にも巡ってくるなんて思ってもみませんでした。
18歳の時に父の会社に入ってからずっと仕事をしてきましたから、自分の好きなことに没頭したり、遊んだりすることもできませんでしたから、鬱憤が溜まっていたのもあったかもしれません。後悔したくないという気持ちもあり、思い切ってその話に乗ってみることにしました。

とは言え、すぐに音楽活動が忙しくなるわけではありません。暇な時間には、前の会社の仕事も手伝うような生活です。あくまでもバンド活動が優先でしたから、レコーディングのために2ヵ月ぐらい休みをもらったりしながら、二足の草鞋で活動していました。

しかしやはり音楽の世界は厳しかったですね。5年ぐらい頑張ってみたのですが、まったくお金になりません。こんなに音楽ってお金にならないのかと思いました。30~35歳という料理人としては学ぶことが多い時期だと思いますが、私はバンドマンとして過ごしました。

音楽活動をやめることになったきっかけは?

ご主人:
きっかけは妻との結婚です。妻と結婚するには、今のままではダメだと思いまして、音楽の世界はあきらめ、きちんと生計を立てれる仕事をしていこうと決断しました。

女将さんは、当時はどのように考えていらっしゃったのでしょうか。

女将さん:
私は飲食店での主人の働きぶりを見ていましたし、不安を感じたりはまったくありませんでした。飲食店でもして二人で頑張っていけばいいと思っていましたね。
長年友人として支えてきましたが、東京にいながら交際が始まり、主人との結婚という決断を機に神戸に帰ってきました。

ただ、私の父はすごく反対されました(笑)。お金も仕事もない人と娘が結婚するというのですから。
でも今は父はすごく主人を気に入ってくれていますよ。主人はまじめですし、このお店のことも誇りに感じてくれています。

ご主人は苦笑いしながら聞いていらっしゃいますが、その後はどうされたのでしょうか?

ご主人:
とにかく自分たちにしかできないことを模索しました。そこで、自分が好きな料理は、炭焼きと蕎麦。さらに炭焼きと蕎麦に相性がいい素材は何かを考えていくと…「鴨」。ということで鴨に行き着いたのです。

そこからは、独学での研究です。国産・輸入のいろんな鴨肉を仕入れ、いろいろ試している中で、明らかに他の肉とはレベルの違うものがありました。それが、河内鴨です。鴨にもいろいろありますが、年間を通して安定的に仕入れるためには、野生の鴨は適していません。国産で新鮮な鴨肉を手に入れられるルートを探していった結果、大阪河内で明治時代から鴨の畜産を続けていらっしゃる「ツムラ本店」さんにたどり着いたのです。

女将さん:
2人でお店を開こうとなってからは、私も覚悟を決めました。お店を支えれるよう、バイトのウェイターレベルのサービスではなく、きちんとしたサービスを学びたいと、知り合いのビストロで働かせてもらい、その店のオーナーであるシニアソムリエからワインの知識や経営を学んだりして準備をしました。

主人から「鴨」を使った料理店はどうだろうと「ツムラ本店」さんのことを聞いて、関西にそんな鴨があるんだと私自身驚きましたし、ピンと来るものがありました。
店舗を検討していたエリアでは飲食店がひしめき合っていましたから、あらゆるジャンルの飲食店がありました。ですから、その中にあって「鴨料理」というのは特色が出せるんじゃないかと思いました。

主人にすぐに「ツムラ本店」さんに話聞きに行こう。そういって、主人と訪ねました。
ところが「ツムラ本店」さんの5代目の社長は、とてもこだわりが強い方で、門前払い状態で何度も主人が足を運び、ようやく信頼を得て卸していただけることになったのです。

相当なこだわりを持った社長さんですね。

ご主人:
本当に大変でしたね。いろんな知識を問われましたから、何冊もの大学ノートに鴨肉に関することを聞きこんで…
びっちり用意した質問ノートをぶつけても、「質問はそれだけ?もっと聞かないといけないことがあるだろう。」と言われ、タジタジになりながら質疑応答させていただいた覚えがあります(笑)
今となれば笑い話です。

そんなこんなで、ようやく卸して貰えるということになったのですが、新鮮な鴨がほしいという要望に対して「ツムラ本店」さんの社長は、「それなら、朝引きしている鴨を毎朝取りに来るのが条件だ」と。
それから、お店を営業する日は毎朝、朝引きの鴨を「ツムラ本店」さんに直接仕入れに伺わさせて頂いています。
専門店だからこその鮮度、安定した肉質を保てられるのもこのこだわりと信頼があってこそだと思います。

河内鴨料理 田ぶち

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