自分がこれまで経験したこと、日々の活動のすべてが、お菓子という形になって現れる

PATISSERIE AU GRENIER D'OR(オ・グルニエ・ドール)
西原 金蔵

西原金蔵 PATISSERIE AU GRENIER D'OR(オ・グルニエ・ドール)

■「まだまだ学ぶんだ」という気持ちで。管理職でも低姿勢を心掛けた

二度目のフランス修業から戻られたのは何か理由があったのでしょうか。

西原氏:
長男が当時4歳だったのですが、日本の小学校に入れたいと常々考えていたのです。

2年間フランスに滞在し、シャペル氏からはフランスに残って欲しい、日本人ではじめてのMOFを取って欲しいと懇願されました。ただ、その為にはフランスに5年滞在する必要があったのです。
しかしながら、子どもの教育を考えると中途半端に海外の学校に入れるより、日本の学校で育ててあげたいと思い、シャペル氏も子どもの為には仕方がないと最終的には理解してくれました。

当時、「アラン・シャペル東京」ができるという計画が進んでいたので、そこにはお前が必ず来いと。私も「もちろんです!」というやり取りをしました。これは残念ながら実現はしなかったのですが…

帰国後は、神戸にあるホテルの開業に合わせて働くことになります。
フランスに滞在していたときのシャペル氏からの紹介などを通じて、小野ムッシュ(小野正吉氏)に声をかけて頂けたのです。

そのホテルでは製菓の2番手の管理職で迎えられました。管理職は黒ズボンを履くのですが、私はあえて白ズボンを履き、他のスタッフと同じように振る舞うようにしました。
帰国後も「自分はまだまだ学ぶんだ」という思い、姿勢を崩したくなかったからです。

その当時のエピソードがあれば教えてください。

西原氏:
当時私は、「自分のパティシエとしての価値はこれぐらいだから、給与もこの程度は貰うべきだ」という、自分なりの自己評価を持ってたんです。もちろん、大それた金額ではないですよ。いわゆる相場に自分を照らし合わせ、また家族が生活する為に必要な給与、ということを冷静に鑑みた金額です。

そのホテルに採用された時に提示された金額は、それを大幅に下回っていたのです。これはちょっと安すぎるんじゃないかと。

そこで、人事の方にどうしても給与が納得できないので、見直ししてくれないかと相談しました。
そうすると、当時、給与交渉をしたのが社内で大問題になったそうです。人事から社長にその話が行き、小野ムッシュにまでその話が行ったそうなんです。西原というやつがこんなことを言ってきている、と。

それで、はじめは小野ムッシュは、私が給与交渉した事をお叱りになられたそうです。ですが、「それで一体いくらの給与を提示したんだ。」と聞かれたところ、提示した金額を聞いて、「それじゃ西原の言い分は当然だ!」と小野ムッシュが今度はホテル側に対してカンカンに怒られたという話を聞きました。

結果、私にもすぐに連絡があり、希望する以上の金額を提示していただくことができました。

言ってみるものですね。

西原氏:
そうですね。でも、おかげで私は相当な異端児扱いをされました(笑)。

向こうにしてみれば、「アラン・シャペル」で働いていたフランス帰り、しかも給料が低いと文句をつけてくるやつですから、警戒したんじゃないですかね。
私も自分が ”いわくつき” という事は理解していましたから、絶対に偉そうにはしない、低姿勢でいこうと。先程のズボンの話も、そういう意味合いもありました。そんなこんながありましたが、そのホテルでは2年働きお世話になりました。

小野ムッシュから次はお前が製菓長だぞと言って頂いていたのですが…。実は、私は違う道を模索することになります。私が次のステージへの進路選択を考え出していたちょうどその頃、シャペル氏が急逝してしまったのです。

それはまた突然でしたね。

西原氏:
ええ、本当に…。

「アラン・シャペル」が東京にできて、シェフパティシエとして私が参画するという構想もあり、その心づもりもしていました。
そんな折、ジャック・ボリー氏(※5)から、「シャペル氏は亡くなってしまったけれど、西原が東京に来るつもりでいたのであれば、一緒に仕事をしないか」と声をかけてもらったのです。

そこから7年、資生堂パーラー(※6)で働くことになります。

※5:ジャック・ボリー(Jacques Borie)
1973年に来日し、「ロオジエ」の立ち上げに参画。ミシュラン三つ星を獲得している。国家最優秀職人賞(MOF)、国家功労勲章を受賞し、資生堂パーラーのエグゼクティブ プロデューサーとして活躍。

※6:資生堂の子会社で洋食・喫茶店の運営や洋菓子の販売を行っている。
ボリー氏との出会いは、何度か東京で開かれた、「ジョエル・ロブション」(※7)と「アラン・シャペル」がコラボレーションした料理フェアでした。私もシャペル氏に同行させてもらったんです。その時にロオジエでシェフをしていたボリー氏と出会い、その縁で親しくさせてもらっていました。

※7: ジョエル・ロブション(Joel Robuchon)
世界各国で星を獲得しており、「世界一星を持つシェフ」としても知られているシェフ。フランス国外、中でも日本での活動が豊富で、日本のフランス料理業界に与えた影響も大きい。

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■資生堂パーラーでの新たな挑戦。ミッションは、「思いっきり遊ぶこと」

東京という新天地に移られたわけですね。

西原氏:
はい。ボリー氏に誘われ、資生堂パーラーの「ロオジエ」でデザートを担当するシェフとして働くことになりました。

資生堂パーラーでは、実は正社員ではなく、年俸制の契約社員として働いていました。結果が出なければ切られるわけですが、その分、報酬はとても良かったです。
また私としても、そうしたプレッシャーの中で仕事ができたというのはプラスになりました。

もっとよくしよう、もっとお客さんに喜んでもらおうということで、どんどんお店を改善していく。さらに、資生堂パーラーで非常によかったことは、それをやらせてくれる環境があったということです。

当時の資生堂パーラーの社長はフランス支社から戻ったばかりの、フランスのパティスリーに精通された方でした。
甘いものが好きな方で、厨房にちょいちょい顔を出されるんです。私も察して「社長、今度出すスイーツを試食してもらえませんか。」と差し出すわけです。おかげで、非常に懇意にして頂きました。

そういった経緯もあり、私のとてもよい理解者としてツーカーで事業を推進することができたのです。

社長自ら、「西原さん、思いっきり遊んでください。」と言って頂き、厨房や店舗の模様替えなど、本当に好きにやらせてもらいました。

だいぶお金がかかると思うのですが、快くやらせてもらえた理由はなんなのでしょうか。

西原氏:
タイミングの良さですね。

当時、資生堂パーラーのパティスリーは全くの無名だったのですが、資生堂本社の社長の意向として、資生堂パーラーのビル一階を、女性の目の引くことができるような話題性のある、「WAKO」や「レカン」といった名店に並ぶお店にしていきたいという意向があったそうです。

とても運がよかったですね。資生堂パーラーという、歴史ある”劇場”の舞台に1人で立たせてもらって、満席のお客様の前に立って好きなことをするチャンスをもらえたのですから。

資生堂パーラーでは、なかなか普通のパティシエではできないような経験をさせてもらいました。

どのようなご経験でしょうか?

西原氏:
あるプロモーションのプロジェクトがあったのですが、資生堂のデザイナー、ライター、カメラマン、そして私で、「セーヌ川に架かる12の橋」をテーマにして、毎月一つの橋をお菓子で作っていくといったものでした。
私としてはそういう異業種のプロと一緒に仕事をするというのははじめてでしたから、大変でしたがとても刺激的で面白かったですね。

あるときは、皇太子殿下と雅子様の婚約祝のケーキを作らせて頂いたことがあります。
皇室ではお一人お一人に御印章があるのですが、皇太子殿下と雅子様の御印になっている花を飾り菓子にしたものを作らせていただきました。大変光栄でしたね。

いろいろな事がありました。資生堂パーラーという舞台で私は本当に花開かせてもらったなと、そう思います。

資生堂パーラーを退職した理由はなんですか。

西原氏:
銀座店の建て替えに伴い「ロオジエ」が一時閉店するタイミングと、子どもがちょうど小学校から中学校に進学するというタイミングが重なったからです。

当時は岡山に帰り、お店を開きたいという考えもありましたので。資生堂パーラーの閉店後、岡山に帰る準備期間として、「トロワグロ」のパティスリー部門のアドバイザーを1年半くらいしました。ただ、この計画は変更になり、結局は京都でお店を出すことになりました。

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