「食」は、人との繋がりを生み出す。そこに国境も限界もない。

KIHACHI 創業者
熊谷 喜八

KIHACHI 青山本店 内観

■夢を掴んだ後の破竹の勢いと、突然訪れた最大の苦悩

日本に戻って、サザビーグループに入られました。

熊谷氏:
日本に戻ってきて1年ちょっと、サザビーグループの初代社長と一緒につくったのが『シルバースプーン』です。ある時期、東京で一番うまいと評判になった時、ひと晩の売り上げが夜だけで65万位売上げました。40年前の話ですよ…。

その実績があって、続いて葉山でやることに。こちらも、うまくいきました。雨の日も雪の日も、満席じゃないときはなかった。神奈川でうちに敵うところはなかったかもしれない。それぐらい、テレビから何から話題になった。

『シルバースプーン』はお店自体は2年半ぐらいでなくなりましたが、葉山は今もあります。

自身がシェフというお店だと、やはり違うものがありますか?

熊谷氏:
何が一番変化したかっていうと、責任感ですね。お客様に美味しいといわせたい、利益を出さないといけない、部下にやりがいを持たせねばと…色々あります。

葉山ラマーレ時代、10年間週2回のペースで市場に行きました。市場でのセリ権も持っています。
その市場に行ってですね、今までのフランス料理だと、鮭だとかヒラメ、鯛、スズキ、舌平目とか高級魚ばかりを使っていたけど、そこにはサンマもアジも、イワシもあるわけですよ。カマスもある。
当たり前だけどそれを見て、なんだこりゃ!って。生きてるんですから。朝、まだ跳ねてる。…これを料理したい!と思ったんです。食べれば美味しいし、安いし、色々な魚がいる!

そのころ、ちょうど今から40数年前に、新鮮な魚や貝を使ったサラダや生魚のカルパッチョを作ったんです。それが料理本に沢山紹介された。今でこそもう、フレンチでもイタリアンとかでも使われていますけど、ほぼ元祖かな…。

だって、あんな鮮度のいいもの手の加えようがないですよね。それだけで十分おいしいんですから。それをお客さんに出して、食べて、わぁーって喜んでもらえる。
一躍「ラ・マーレ」は有名になりました。何しろ市場にある魚で使ったことのない魚は無いくらいです。

フランス時代と全然違いますか?

熊谷氏:
いや、ベースはフランス料理です。フランス料理の技術は秀でています。そこに一寸日本料理の技を取り入れていました。ひとつ、フランス料理の弱点があるとすれば、魚介類においての鮮度の高いものに対しての技術が未熟というところでしょうか。

雑誌の家庭画報にはお世話になりました。
多い時は年7~8回掲載されたんですけど、彼らの注文は抽象的で難しいんですよ。「エビ・カニを中心にグラビアを16ページ、ちょっとエスニックな感じでスパイスの効いたのを作れ」とかね、そんな感じだったんです。

それで勉強になったんですね。いろいろな本を読みながら。家庭画報に、本当に育てられた。エスニックって、どこのエスニックなのか。アジア風なのか、中南米の方なのか、どこを捉えて言っているんですかって。そういうなかでスパイスや調味料、調理の考え方等を学びました。

KIHACHI 内観

雑誌の撮影の中で、そうしたテーマ設定のようなものがあったんですね。さて、葉山の次はいよいよ、「キハチ」の登場ですね。

そうですね。ある時、自分で作りながら、このフルコースでは来週もまた食べたいかってって言われたらちょっと重いな…っていう気がしてきたんですよ。コストも高い。生クリームとか、バターもふんだんに入れますからね。「ラ・マーレ」時代はまだフランス料理にこだわり続けていました。

キハチを創る時、1週間に2回でも3回でも食べられる料理、そして、私も貧乏人のせがれだったんでね。新しく社会人になって給料もらったら、そのお金でお父さん、お母さんと食べに行けるような、ちょっとだけ背伸びした感じの店が作りたくなったんです。

ランチタイムは2,500円、3,500円、5,000円くらいがいいな、とか。そのかわり前菜も決まっているんじゃなくて、8~10種類ぐらいから選べるようにしたり。メインも魚か肉かを選べる。デザートも必要ですからね。そういうことを考えながら「キハチ」を作りました。おかげさまで、東京で一番のランチ屋さんになりました。そういう明確な戦略を作ったから、勝てたんだと思います。

キハチを出店する際、改めて“東京”で店をすることに、ためらいはなかったんですか?

熊谷氏:
それはもう、東京はね。日本の東京じゃない、世界の東京ですからね。エネルギーは充分で、勝負するにはやりがいのあるところです。

そのころきらめく星のようなシェフが山のようにいました。この人たちにどうしたら勝てるか?を考えました。この人たちの隙間って何だろう、ってね。考えた末に、最終的に出た答えが、“安心・安全”だったんです。

だから私たちはそういう運動をしたわけですよ。「キハチ」の地下にマーケットをつくってね。天然の魚介類、無農薬の野菜、無添加の調味料を仕入れました。

仕入れたものは売らないと賞味期限が切れちゃう。調味料だってそこには味噌もある、醤油もある。そういう材料が入ってくることはわかっていたので、それを動かさなきゃならないと思っていた。「キハチ」をつくる構想の段階でね。そうすると、だんだんと料理の国籍が邪魔になってきたんです。

ただ、我々が作るものは多国籍料理じゃなくてね、洋風の料理なんですよ、洋風無国籍料理。それには必ずワインとパンに合わなきゃいかんという一番の根底、考えがあります。それで国籍の無い料理を試行錯誤しながらつくっていった。

ウチに慣れているお客さんは、まず地下に行って魚見て、これ食べるから上でシェフにお任せで頼むよ。って感じになる。8tぐらいの水槽があるから。オマール海老なんか常時300尾。車エビも200尾ぐらいいる。マーケットですから。

当時としてはかなり革新的な店ですよね。フランスにモデルとなるようなお店があったのですか?

熊谷氏:
実は、フランスではなく台湾。「キハチ」の前に台湾に行ったんですよ。ふらーっと、ちょっと落ち込むことがあって、傷心を癒やすためにね(笑)。それであるお店に行った時にね、そこは入り口がマーケットだったんです。

コレ、コレ、コレって選んで座っていると、それが料理になって出てくる。これは凄い!と思って。こんなことしてしていられない!日本に帰ろうと思って。傷心も吹き飛びました(笑)。

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傷心の内容も気になるところですが、そういったヒントがあったんですね。キハチはお一人で開店したのですか?

熊谷氏:
グループの系列会社ですから、当然サザビーホールディングスの子会社として「キハチ」の代表になりました。でも、開店した翌年に食中毒があって。

牡蠣が原因でした。4日か5日、営業停止に。クリスマス前日の21日からだったんです。キッチンとお菓子が一緒になっている店だったんですが、クリスマスケーキを徹夜でつくって、22日には売らなきゃならないっていうときに、全部廃棄処分です。

レストランも勢いに乗っていたから、当然予約で満席。
ただ、お客さまにこれ以上ご迷惑をかけることはできませんから、近くのお店を貸し切って、費用を全部キハチが負担して、ご予約のお客さんをそこに無償で招待しました。

一番、流れに乗っていたときでしたからね、運営としては大変でした。“安心・安全”をテーマにしたお店だったので、余計にね。

大変な事件だったんですね。当時はシェフとしてだけでなく、社長もされていたと思うのですが、どのような状況だったんでしょうか。

熊谷氏:
今思うと、当時はまったく社長なんて能力もないしできてなかったですね。
その頃、すごい時には夜の営業だけで4回転半していました。4回転半ですよ、考えられないですよね。

そのころはいろいろなツアーがあって、例えば17時半開店なのに17時に入れてくれってバスが来るんですよ。バーッて入ってきて大体1時間足らずで帰ったと思ったら、また次のバスがくる。そこから一般のお客さんが来て。21時半がラストオーダーなんだけど、お客さんがみんな階段のところで待っていて、21時半過ぎても食事を終えたお客さんが出られないくらい。

90席ぐらいだったんですけどね。それで結局終わるのが深夜1時ぐらい。私が先頭に立ってやらないと間に合わないですから、社長もやりながら調理もやって。だから、いくら売り上げが上がっているのかも、全然わかっていなかった。

結局、中毒が起きたときも、「何も把握していない」ということになって。社長を降格させられました。
落ち込みましたね。200%ぐらい働いていたんですから。料理人やって社長やって、取材も全部自分でしょ。半年先まで予定が全部埋まる。開店して6ヵ月ぐらい経って、1日も休んでいない。休めないんですよ。日本中の雑誌からテレビから、ずーっと来る。取材だけで、1日3社くらいありましたから。

降格して、副社長になって、落ち込んだ。でも、悪いことばかりではなかった。そこで改めて、経営を見つめ直し、自分だったらどういう判断するかなという勉強ができるようになりました。

再度、社長に戻りましたが、この時期の経験は貴重でしたね。でもこの大きさになると私の能力では無理かもしれません。

KIHACHI 創業者 熊谷喜八

■シェフではなく、経営者としての考え

シェフとしてでなく、経営者となることで、考え方の違いなどはありますか?

熊谷氏:
「キハチ」の最盛期は社員・パート含めて1,500名。年商100億円ですからね。私が死んだ後も、料理人で年商100億生み出す人って、なかなか出てこないんじゃないかと思うもん(笑)。100億って結構大きいですよ。自分に課せたノルマが50億円ぐらいだったので、それをだいぶ超えました。

私が料理人だから、料理に一番大事なことがわかるのは良かったですね。当初、原価があまり正確じゃなかったんですよ。それを徹底的にテコ入れしたんです。原価率を出す経営の考え方ね。経営の原理原則って、数字を見れば今が健全かどうかはわかるけど、その数字の中身がどうやってできているか、それが管理だよね。そういうことも勉強するとわかってくるんだよ。

一番難しいのは人材教育。100人いたら100人違うから。当時は、それができていたから、うまくいきました。人事管理は、大手といわれる企業さんと同じように細かくやってね。飲食店でそこまでやった会社は当時なかったんじゃないかな。

経営しながらも、私は切り込み隊長。現場で横並びで共に戦うので、自分ができないことは、できない!ってはっきり言います。俺はココが弱いからお前ココ頼むぞ!って弱みを見せちゃう。ココを支えてくれと。そのかわり俺ココやるぞと。そういうのが私の経営スタイルです。

社長の横で、任せられたメンバーも育っていきますよね。

熊谷氏:
本当はそこまでの能力がない人だったとしても、100%、110%の能力を発揮してくれると、店が成り立つんですよね。それで数字がものすごくよくなった。店を出た今も現場に行くとみんなが慕ってくれる。みんなを連れてラーメン食べに行ったり、話を聞いたりしてますね。

社長と言っても、私は創業者でしたからね。自ら先頭に立って、時には兵隊になって動きますよ。
だから家なんてぐちゃぐちゃですけど。いないんですから。1年間で家に居た日が数えられるくらいしかない(笑)。

今は、顧問をされておりますね。社長から退かれたきっかけはあったのでしょうか?

熊谷氏:
実は、10年ぐらい前には脳梗塞で倒れまして。1年ぐらい体調に自信がなかったんですよ。それと全体の管理能力の無さに自信を無くし、顧問になりました。
それで、「アフタヌーンティー」と「キハチ」を合併したんです。でも、そのころから商売が難しくなって来てね。うちも銀座に大きな事務所持ってたんですけど、家賃が無駄だと思って、サザビーの本社ビルに統合しました。

90年代くらいから、大型店を満席にしづらくなりました。最近では、大型店をやる人は少ないですよね。働き手も集められないしね。
1,000店舗ぐらいある大手チェーンのカフェでは、大変な数のスタッフが必要になります。人手不足な現在、深刻な問題です。一等地に出していくわけですから、イニシャルコストもランニングコストもかかるし、その割に利益が少ない…。本来は、規模が大きいから成り立つんですけどね。

KIHACHI 外観

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定休日
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