「食」は、人との繋がりを生み出す。そこに国境も限界もない。

KIHACHI 創業者
熊谷 喜八

■いざ、子供のころに憧れ抱いた夢あふれる場所に

大使館をやめて、なぜフランスに行こうと思ったのですか?

熊谷氏:
それはね、私がうつ病になったときに、たまたま大使館にもう一人現地の使用人がいたんです。その人に「お前今日休みだろ、俺がご飯つくってやるよ」って言われてね。精神的に落ち込んでいて、でも何か食べなきゃいけないって時で…。

冷蔵庫開けたら、冷ごはんと卵と牛乳があったわけですよ。卵とご飯っていったら、日本だったら雑炊とか、チャーハンかと思うじゃないですか。そうしたらその3つでですね、スフレをつくってくれたんですよ。…それが、あまりにもうまかった。

その人は、フランスで鍋洗いをしていたようなんです。鍋洗いをしながら、垣間見て料理を覚えたと言うんです。

垣間見て作った料理がこんなに美味しいんだったら、本当のフランス料理はどれだけ美味しいんだ!?って衝撃を受けました。こうなったら、石にかじりついてでもフランスに行ってイチから勉強しようと思ったんですね。

ささやかなきっかけかもしれませんが、それがあったから本気でフランス料理をやりたいって目覚めることができました。

フランスに行こうと思っても、当時はまだ旅行が大変だったのでは?

熊谷氏:
そのころは、日本、パリ往復の旅行で37~8万円。私の給料が1万6,000円ぐらいでしたから、大変な金額です。

でも、幸い大使館に勤めている頃はお金を使わないから、そこそこ貯まっていました。3食付いておりましたしね。遊びに行くところも何もないですから。何しろ、モロッコには百数十人しか日本人がいないようなところです。アフリカ時代セネガルでは気晴らしにオートバイを買い、暴走族ではありませんが、夜中に爆走していました。モロッコではフォルクスワーゲンを買い、モロッコ中を走り回っていました。遊びと言ったらそのくらい(笑)。

この時代に、ご自身の貯金で行かれたんですね。フランスでは当初有名なお店からスタートしたようですが、どういうご縁だったのでしょうか?

熊谷氏:
モロッコ大使館時代、モロッコはヨーロッパの避寒地でしたので、その時期在仏日本大使夫妻、在スイス日本大使夫妻とかが遊びに来るのです。そんな夜にみんな集まってトランプのブリッチゲームとかするわけですよ。大使の奥さんがゲームで負けるとね、バトンタッチして私が代わりで入ったりしていたんです。

そうやってみんなでワイワイしているなかで、「熊谷君は、将来どうしたいんだ」って話になって、フランス行って勉強したいです!ということを言ったんです。そうしたら、「わかった」と。“パリに来たら、訪ねていらっしゃい”と言ってもらえたんです。その大使はフランス料理アカデミーの名誉理事だったのです。その前にフランスの有名なレストランに就職願いの履歴書を沢山送りましたが全てダメでしたので、この言葉を頼りにしました。

それで、パリに渡った時点でマキシムに紹介して頂き、返事を待ちました。待つ間、生活費を切り詰めるために在仏日本大使館の掃除夫になり頑張ってました。ただし労働許可証が下りず、本当に苦労しました。

それで、「マキシム」に入ることができました。当時は、労働許可証がまだ申請中の身分でしたので、給与も最低賃金以下の600フラン。住んでいるアパートの家賃が623フランだったのです。

ところが、ちょっと恨み言なんですが、当時、日本の辻調さんがフランスで影響力があってね。「学生を無給で練習させます」なんて言って、学生をフランスのお店に連れてきちゃう。
で、私みたいな元々いた人間は、「600フランも払わなきゃならない」ってことで出されちゃったわけです。あれはさすがに参りました。

でもまぁ、そこそこ仕事はできていたから、労働許可証もやっと取れて『パヴィヨンロワイヤル』でドミシェフになることができました。

労働許可証の入手は、本当に苦労されたと聞きます。

熊谷氏:
労働許可証の話は、我々の世代の人はみんな涙を流してしまうほど大変なことでした。

要するに、フランスも移民が多すぎて、国の政策で外国人労働者をシャットアウトしちゃった。国の治安が乱れるっていうことで。そんななかで希少な許可証をなんとか取ったんですよ。
その時代、第二次世界大戦で東南アジアで肉親が戦死したというフランス人は沢山いるのです。戦後26年しか経っていないのです。ですから頭から偏見な目で見ているのです。

だれも口をきいてくれないようなこともありましたからね。もう仕事をやるしかないんです、負けないように!そうやって、認められていきました。
そして、パリにも段々慣れてきたころ、すごいシェフがいるぞと聞きました。「ホテル・コンコルド・ラファイエット」のシェフがすごいんだと聞きました。それが、ジョエル・ロブションです。彼が29歳で、私が27歳でした。面接に行くと幸運にも採用されて、そこでガルド・マンジェのシェフ・パルティをやって。

ロブション氏はコンコルド・ラファイエットからホテルニッコーパリに移り、彼はそこから日本とフランスを行き来して東洋との接点を持ち、彼の、ロブションの世界観を作ったんだろうと思います。

フランスでは料理は自由にできたのですか?

熊谷氏:
シェフドパルティのギャルマンジェ、ポワッソン、ロティスールの資格を貰えたので、シェフのレシピに従って作ることができました。

部下も20人ぐらいいましたから。1975年、ロブションといるときに、アルパッジョン料理コンクールで日本人で初めて料理部門でのプロスペールモンターニエ杯を受賞したんです。その時は、フランス料理一本でやろうって思ってましたね。

何年ぐらいやられたのですか?

熊谷氏:
フランスが3年ですね。
向こうで人気のレストランに食べに行ったとき、これに近いくらいのことは俺にもできるなと思って。今思うと、驕っていたんですけども(苦笑)。だから、日本でもいいかって思っちゃった。もし、そこでまたすごいシェフに出会っていたら、人生変わっていたかもしれません。特に天才的なシェフ、ロブション氏の下にいながら、ソーシエ(肉料理およびソース担当)とかポワッソン(魚担当)とかの部署に移してもらえず、彼の凄さになかなか触れる事が出来なかったことが今でも悔やまれます。

そんなおりに、子供ができました。ロブションが別のホテルに移るということで、私もついて行くということで採用されていたけど、日本で子供が生まれたらもう動くことができなくなってしまって。

それで、ロブションの元を離れて、サザビーグループにお世話になりました。
サザビーグループ創業者の義理の弟さんが、昔フランスに菓子店の視察旅行で来ていたんです。その時に、彼と「将来、葉山でフランス料理をやりたいよね」って意気投合して、日本に帰ってきたら声かけてくれ、という話をしておりました。そんなご縁で、葉山で『ラ・マーレ・ド・茶屋』をつくりました。

フランス時代は、ロブションの元で働いていましたが、本当に独り立ちして勉強になったのは、日本に帰ってきて『ラ・マーレ・ド・茶屋』のシェフになってからかもしれません。

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