逆境でこそ燃える!チャレンジ精神を失わないフランス料理の鉄人

ラ・ロシェル
坂井 宏行

■家族の喜ぶ顔を見たくて料理が大好きに。少年時代の憧れは船のコック

料理の道へ入ったきっかけは?

坂井氏:
僕は三人姉弟の長男で、2歳上の姉と2歳下の弟がいます。勤め人の親父が水俣にある化学会社で朝鮮に転勤していた最中の1942年に生まれました。

その頃のことはあまり記憶にないのですが、戦争に負けて、3歳の時に日本に引き上げてきました。鹿児島県出水市のおふくろの兄貴の家の離れで暮らし始めましたが、その頃に父親が戦地で亡くなりました。父親の顔は覚えていませんね。

当時は、ばあちゃんも一緒に暮らしていましたが、おふくろは女手ひとつで子供3人を育ててくれました。和裁の仕事で生計を立てていましたが、いつも忙しくしていて、家族のごはんを作る時間もなくて。だから僕は8歳頃には台所に立って料理をしていました。食べてくれるおふくろの笑顔がうれしくて、料理が大好きになって。その延長線上に料理の道が自然とありましたね。

子供時代の食体験について、どんなことが鮮明な記憶として残っていますか?

坂井氏:
家のまわりに山と川があったので、中学の帰り道にはいろんなものを採っていました。川で鮎や蟹を捕まえたり、山では桑の実、野いちご、栗を集めたり、楽しかったね。近所の腕のいいマタギのおじいさんが、大きなイノシシを担いで山から降りてくる時には、その残りをもらったりしてね。揚げたり焼いたりしていたかな。心臓などの一番おいしいところはおじさんがもっていくけれど、肝や心臓は新鮮なものほどおいしかったなあ。

自家製の醤油や味噌を当たり前につくっていた時代。味噌作りの時に、蒸しあげたばかりのほくほくの大豆をつまみ食いしたのもいい思い出ですね。自分で採った鮎を串に刺して味噌を塗って焼いて……そうしたおいしい記憶は山ほどありますよ。

ご家族のために料理を始められたとのことでしたが、料理人になりたい!と意識されたのはいつでしたか?

坂井氏:
手先が器用だった僕は、中学時代には家族の料理をよく作っていました。その当時は、船のコックさんが一番の憧れでした。近くの米ノ津港には客と貨物を両方乗せた船が入ってきていたのですが、かっこいいコックコート姿のコックさんを港で見たのがきっかけで、自分も船に乗りたいなあと憧れていました。
……仕事を始めてからのことですが、実は海上自衛隊のコックさんの試験を受けたこともあるんですよ。失敗しましたけどね(笑)。

中学を卒業されてからの進路は、どう決めたのですか?

坂井氏:
鹿児島県出水市立出水中学校を出て、おふくろのすすめもあって県立出水高校に進学しました。でも結局、勉強に身が入らなくて高校一年生の半ばで中退しました。料理人の世界に進みたいと強く思ったからです。

姉と弟は二人とも高校に通いましたから、長男の僕は一家の大黒柱として家を助けたいという思いも強かったんです。

外国航路のコックになりたいという夢を持って、16歳の時に大阪の仕出し弁当屋さんに住み込みで就職。ホテル新大阪で経験を積まれてから、オーストラリアのパースへ行かれますね。

坂井氏:
フランス料理のシェフに憧れていましたから、「外国」で働く求人に魅力を感じて、オーストラリア南西部の街パースにある「ホテル・オリエンタル」で働くことを決めました。

今でこそオーストラリアには飛行機で8~9時間もあれば行けますが、当時は海外に自由にいける時代ではなかったですね。お金もほとんどなかったので。渡航費を稼いでから海外に向かうのではなく、お金がなくてもいかに稼ぎながら海外に行ける方法を考えました。最終的には、先輩のツテをたどって、船のコックとして働きながらオーストラリアに行く方法をとりました。船賃がかからない上に、給料ももらえて好都合でしたから。

僕が日本を出発したのは1961年、18歳の時。途中で何カ所も寄港しながら南下して、2カ月かけてオーストラリアに到着する旅でした。乗船したのは、半分が貨物、半分が客船という船だったので、お客さんはあまり多くなくて。船の上で作っていたのは、主に船員向けの料理でした。

オーストラリアでの2年弱の修行ではどんな収穫がありましたか?

坂井氏:
「ホテル・オリエンタル」では下働きからのスタートでした。それまで作ったことのないサラダやドレッシング、見るのも初めてのアボカドなど、新しい食材や料理方法にわくわくしました。それまでの経験もあってある程度の料理は作れましたし、日本人は器用だから「魚をおろすのが上手いからお前がやれ」とすぐに任せてもらえるようになりました。

ホテル・オリエンタルで過ごした1年8カ月間で、英語も料理の知識も少しずつ身につけていきました。でも、オーストラリアで修行したのは、実はポリネシアン料理。「フランス料理のシェフになる」と目標は明確に定まっていましたが、フランス料理の経験値が上がったわけではありませんでした。ですが、見知らぬ土地でたくさんのものを学んだ自信と喜びがありましたね。

■「伝説の料理人」の生き様に大いに刺激を受ける。本格フランス料理修行時代

東京オリンピック直前の頃に日本帰国された後には、東京の志度藤雄さんの元で修行されますね。

坂井氏:
フランスで長年修行された料理人、志度 藤雄(※1)さんのことは、本を読んで知っていました。今も手に入ると思いますが、『料理人として』(1981年、文化出版局刊)は感動して何度も繰り返し読んだ本です。

僕は船でオーストラリアに渡りましたが、志度さんはもっとすごい。パスポートもなくヨーロッパに渡り、客船で密航して捕まっても脱走して、また密航して脱出して……長い間フランスで料理修行されて。波乱万丈の人生で、たくさんの伝説的な経験をされている方ですからね。

1963年12月にオーストラリアから帰国した当時の東京は、オリンピック目前で高度成長期に湧いていました。ちょうどその頃、銀座の有名レストラン「コックドール」が銀座・数寄屋橋近くに新しくフランス料理店「四季」を開店させるためにオープニングスタッフを募集していたので、憧れの伝説のシェフの元で働けるぞ!と応募しました。

そして僕は、志度さんが料理長だった時代に3年ほど師事することができました。後に日本最初の本格フランス料理店と呼ばれるようになる「四季」は、まさに超一流店。豪華なレストランでした。贅沢に食材を使えましたから、アメリカン・ソース(ソース・アメリケーヌ)を作る時も、伊勢海老を丸ごと潰していてね。僕なんかは、これじゃあ美味しくなるのはあたりまえだよな、なんて思っていました(笑)。

※1:志度 藤雄
フランス料理人。「ムッシュ志度」と称される、日本のフランス料理の先駆者。吉田茂が首相を務めていた際に官邸料理人の任に就く。1972年にフランス料理アカデミー賞を受賞。

志度藤雄さんから学んだことで、一番印象に残っていることは何ですか?

坂井氏:
志度さんは「ムッシュ」と呼ばれていました。僕がムッシュ・志度藤雄からまず教えられたのは、ものを大切にすること。これについては、忘れられないエピソードがあります。ある時、オイルの入った一斗缶を開けるように言われて。本来なら缶切りで開けるべきところ、僕は手近にあった棒で穴をガッと開けたんですね。すると、それを見ていたムッシュに棒を取り上げられ、思い切り頭を殴られて。ものすごい剣幕で怒られたんです。

後から先輩に聞いたところ、実はその棒、ムッシュが修行時代に買った大切なスチール製の包丁の研ぎ棒だったんです。ムッシュがすごい怒り方をしたのも無理はないですよね。僕が大事な道具を使って、適当に缶を開けてしまったこと……印象的で今でも覚えています。

志度藤雄さんからは、どんな面で影響を受けましたか?

坂井氏:
ムッシュは完璧主義で、一匹狼だけどこだわりがあって、厳しかった。この人いつ寝てるんだろうって思うくらい、誰よりも働いていましたよ。当時の僕は見習いだったので朝8時には厨房にいるようにしていたけれど、朝7時に店に出てもムッシュはもう来ていましたね。じゃあもう少し早く来てみようって朝6時半に来ても……もう調理場にいましたから。

ある時なんか、出勤してすぐに倉庫へ直行してバケツをもって厨房に入ってね。「おはようございます!」ってムッシュに挨拶して。あたかも先に店に来ていたように振舞ったりしてみたりしました(笑)。でもとにかく、ムッシュは誰よりも早い時間から店に入って、スタッフ全員を帰して自分が最後になるまで店に残っていました。まさに熱意の人でしたよ。

「ムッシュ・志度藤雄」という偉大な人物の作るフランス料理は、当時の日本では最高水準。本場の料理を知らなかった僕でも、「本物」だということはわかりました。僕はムッシュの元で働いてはいましたが、直接やりとりをする立場ではなかったから「師事」したというのとは違ったかな。でも、偉大な存在の働く姿を間近で見ることができた経験はとても貴重でした。フランス料理のシェフはこうあるべきだという道標を得ることができましたから。

ラ・ロシェル

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