カウンター割烹と日本の食材に魅せられて。和を愛し、独創的な和仏マリアージュを繰り出すフランス人シェフ

メゾン・ド・ミナミ フレンチ割烹 ドミニク・コルビ
ドミニク・コルビ(Dominique Corby)

■1、2年スパンで店を変わりステップアップ。23歳でシェフに

料理人を目指されたきっかけは?

1965 年にフランス・パリに生まれました。幼い頃は、日曜日に家族が一同に集まって祖母の料理を食べて過ごしていましたが、その幸せな雰囲気がすごく好きで。そこで料理は人を幸せにすることを知り、自分もお客様を料理で幸せにしたいと思うようになって。6歳の頃には料理上手な祖母の手伝いをしていました。料理の道を志すのは早かったですね。

料理人としてのキャリアのスタートは?

料理人としてのスタートは15歳。最初は伝統的なフランス料理店に入店しました。そこでまず2年間、ゼロからすべて現場で学びました。次の店は家から原付で通える範囲のエリアで探して。当時パリの郊外に住んでいたのですが、家からほど近いところにちょうどオープンしたばかりの二つ星のレストラン「ル・タストヴァン(le Tast’vin)」(現在は閉店)に入店し、1年半過ごしました。

その後は、知人に誘われてフランス南部のリゾート地サントロペに行きました。芸能人も数多く訪れる映画の舞台になるような有名店ルピネで、1984年5月の終わりから11月1日までお菓子専任のスタッフとして期間限定で働きました。滞在している間にも、有名な映画「恋のサントロペ」(原題「On se calme et on boit frais a Saint Tropez」1988年公開)」のロケが3週間くらいかけて行われていましたね。

サントロペでの約半年を経てまたパリに戻ると、マキシム・ド・パリの系列店レスパス・カルダンに入りました。修業先には、フランス料理店の中でも特にクラシカルなお店を選んでいたと思います。

当時のフランス料理の修行は厳しかったでしょうね。お店を1、2年のスパンで変わられていますが、それはなぜですか?

労働時間も長く、下積み時代の修行は厳しかったです。でも向上心が強かったので、もっと上のクラスに登っていきたい、シェフにどんどん仕事を任されるようになりたいと常に思っていました。

店は2年くらいで変わるのが当たり前でした。他の料理人もそうだったと思います。ずっと同じ店にいると全てがルーティンになってしまうため、新鮮な学びがなくなってしまうのです。どんどん新しいことを身に付けたい!自分の能力を伸ばしたい!と思っていましたから、新しい仕事にふれ、新しいレシピや料理法を学ぶためにも、職場を変えることは大事でした。日本では、ひとつのお店にいる年数がもう少し長いのかな。でもそうなると、成長は難しいと思いますね。違うお店に行ってステップアップしていくことは良いことだと思います。

次の行き先は自分で探すのではなく、ほとんどが紹介でした。料理人仲間やオーナーから、あそこに行かないか、うちに来てくれないか、とお誘いのオファーをもらうことが多かったですね。

自分が一人前の料理人になったと思えたのは、何歳頃でしたか?

自分のお店を持っているかどうかは関係なく、21歳頃には自分はプロだと思っていましたね。23歳でシェフになりましたが、これは料理人の中でも早い方です。28歳には「トゥールダルジャン東京店」の総料理長として来日しています。

23歳という若さでシェフになった経緯は?

日本人の思い描く競馬場のイメージとは異なると思いますが、フランスの競馬場は世界的な著名人が集まる場所で、上流階級の社交場。私は「ヴァンセーヌ・パリ競馬場」で初めてシェフになりました。

最初は店の二番手として入店しましたが、半年経過した頃にシェフが別の店に転籍することになって。そのシェフ本人が後任者として私を推してくれました。

23歳でシェフになるなんて、若くないか?とさすがに自分でも当時は驚いたのですが、「君は勉強熱心でアイデアも豊富にあり、レシピを考案する力もしっかりある。絶対にいいシェフになれるよ」と背中を押してもらいました。それまでの半年間、シェフと新しいメニュー作りを共同作業する中で、実力を認めてもらい、十分に信頼を得ることができていたのだと思います。

23歳の若さでしたが、きちんと実力が評価されてのシェフ登用だったのですね!当時はどんな心持ちでしたか?

60席ある店で、スタッフは10人くらいだったと思います。たくさんの年上の料理人たちの上に立つことになりましたが、手応え十分でした。何事にも情熱を注ぐぞ!と自信に満ちていました。下にも教えながら、自分も成長していくぞと気合が入っていましたね。

■パリのグランメゾン「トゥールダルジャン」との出会いから28歳で来日するまで

23歳でシェフになって、28歳で来日することになるまでのいきさつは?

競馬場で出会いがありました。店のお客様に、当時三つ星で勢いのあったパリのグランメゾン「トゥールダルジャン」のシェフ、マニュエル・マルティネス(※1 Manuel Martínez、以下シェフ マルティネス)がいたのです。シェフ マルティネスは馬主で、持ち馬が走るレースを観戦するために競馬場に来ていました。ある時うちの店に食事に来て、シェフを呼んでほしいと言われたので出て行ったところ、「若いけれど美味しいものを作るね」と言われたのが初対面。それから何度も店で食事をしていただくうちに、仲良くなりました。

シェフ マルティネスから、もっと違う店で勉強してステップアップしたほうがいいと薦めをもらって、彼の紹介で店を移りました。ただ、行った先のオーナーが家庭の事情で店を閉めることになってしまって。短期間で店を出ることになってしまいました。

そうしたこともあって、次はパリの「トゥールダルジャン」を薦められ、入店することになりました。ただ私は、この店でシェフのポジションにはすぐに就けないだろうと思っていました。だから、短期間しかいないだろうと考え、他の仕事先も探していました。

※1:マニュエル・マルティネス(Manuel Martínez)
国家最優秀職人章(Meilleur Ouvrier de France、M.O.F.)受章者。正統派フレンチを得意とする数々のスターレストランで名を馳せ、三つ星時代の「トゥールダルジャン」では料理長を務めた。現在オーナーシェフを務める「Le Relais Louis XIII (ルレ・ルイ13世)」(www.relaislouis13.fr)は二つ星を獲得。

パリの「トゥールダルジャン」は早々に離れ、他で活躍したいと思っていたのですね。

競馬場の店で一緒に働いていたシェフが私と仕事をしたいと呼んでくれて、コンコルドグループのシャンティ(古城ホテル)で18カ月間程働いたりもしました。誘ってくれた方がエグゼクティブ・シェフ、私はレストランのシェフでした。ただ、通勤が大変で……車で毎日片道数時間かけて通っていたので疲弊してしまいました。仕事はとても楽しかったのですが、家の近くで働きたいという思いが強くなりました。

自宅から勤務地へのアクセスを理由に辞められて。その後はどうされたのですか?

たまたま友人の料理評論家から、あるオーベルジュにシェフとして入らないかと誘いをもらいました。オーナーからゆくゆくはそこを譲り受け、自分の店にできるという話だったので、期待をもって入店しました。

自分の店を持つことができる!夢があるぞ!と期待に胸を膨らませていた矢先、たしかオーベルジュで半年が経過した頃でした。シェフ マルティネスから、「トゥールダルジャン」のフランス国外唯一の支店である日本店に行って欲しいという話をもらったのです。話を受けるべきか悩みました。ですが、それまでいろいろお世話になったこともあり、恩を返さなくてはという思いで、日本行きを承諾しました。

自分のオーベルジュを持てるという可能性はなくなったものの、料理長として日本の店を任せてもらえることに…これは大抜擢ですね!

当時の「トゥールダルジャン東京店」はオープンして19年目になっていましたが、人材がいなくて困っているとのことでした。ただ、日本にはいきなりは行けませんから、まずはパリの「トゥールダルジャン」に入ることになりました。ちょうど1993年9月のことです。

実際に来日されたのは1994年5月ですから、半年以上はパリの「トゥールダルジャン」にいたことになりますね。

仕事をしながら東京の店のレシピを考える日々になりましたが、実は何カ月待っても日本行きの話が具体的にならなくて。あれ?日本行きの話はなくなったのか? もしかして騙されたのか?と思いました(苦笑)。

シェフ マルティネスは忙しくて私のことをケアしてくれる感じではありませんでしたから、オーナーのクロード・ テライユ氏ところに行きました。すると開口一番「あなたは料理人ですか?」と言われましたから……。私の日本行きの話は全く通っていなかったようでした(苦笑)。事情を説明して、日本行きはなくなったのかと問うたところ、明日から自分のまかない料理を作って欲しいとオーナーに言われたのです。その料理を見て、私が適任かどうかを判断するとのことでした。

料理の出来が良ければ、オーナーから日本行きを獲得できるまたとないチャンスが到来したのですね。

さっそく次の日からオーナーのまかないを作りました。自分でも料理の腕に自信はありましたから、きっといけるだろうなと思っていました。

最終的には、2週間経った時に判断をもらいました。オーナーには「コルビはいい料理を作るけれど、『トゥールダルジャン』の料理ではない。もっとクラシックなものを作って欲しい。でも料理は美味しかったから、航空券をあげよう。東京に行きなさい。」と言ってもらいました。日本で修行してこい!というトーンで送り出してくれましたね。

何カ月も待ち続けていた日本行きが2週間で本決まり。一気に話が進んだのですね。日本に対しては、どんな期待感がありましたか?

日本行きを許可してもらってからすぐに店を辞め、1週間でビザの準備などをして渡航。2週間後には日本にいました。日本に到着したのは1994年5月12日。ちょうど世界的なF1レーサーのアイルトン・セナ(※2)が事故で亡くなるという悲しいニュースが報道されていた時期でした。

日本についてはイメージが何もありませんでした。ネガティブな気持ちも一切なく、とにかく期待感でいっぱいでしたね。日本に到着してみて、とにかく綺麗な国だなと感じました。第一印象がとてもよかったです。ピカピカで、ちゃんとしていて。別世界でしたが、フィーリングがとても合いました。

※2:
アイルトン・セナ・ダ・シルバ(Ayrton Senna da Silva)
「音速の貴公子」と呼ばれたブラジル人の天才F1レーサー。F1で通算41勝、 65回のポールポジション、そして3度のワールドチャンピオンに輝いた。1994年5月1 日にレース事故で命を落とす。享年34歳。

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