「向いていない」を言い訳にせず、自分で決めた道を信じて進む

PONTE VECCHIO(ポンテ ベッキオ)
山根 大助

PONTE VECCHIO(ポンテ ベッキオ)山根大助

■神戸の老舗イタリアンで学び、ヨーロッパへ。自分が“何者”かを問う契機に。

学校卒業後、最初の就職先を選んだポイントは?

山根氏:
修業先に選んだのは、神戸の「ドンナロイヤ」という老舗イタリアン。もともと戦時中に日本にやって来たイタリア人が始めたお店で、戦前のイタリア料理を継承した、神戸で最も古いイタリアンレストランでした。

大正以前にできたビルの地下にある広いフロアのその店は、匂いも独特で、照明も少し暗め。足を踏み入れた瞬間、「ここは外国だ」と思いました。異国情緒があって、おもしろいなあと。勉強するならこういう店がいいなぁと考え、そこで3年勤めました。

どんな修業時代でしたか?

山根氏:
もちろん当時は、給与も安いし、休みはないし、先輩は偉そうにするし。しんどい部分もありました。でも、料理は俺の方がうまいぞ、負けてないからいいやと。本当に腹が立って、喧嘩売って辞めてやろうかと思ったこともありましたが、そうすると、これから輝くはずの自分のキャリアに傷がつくことになると、なんとか踏みとどまりました(笑)。

入社して初めの年はサービスをやっていましたけど、先輩がどんどん辞めたこともあって、2年目の時には、その店の2番手になってしまったんです。

賄い作りが楽しかったですね。それまでは先輩が手抜きで作ってましたから、一度、先輩が作って失敗した賄いの、ほぼ同じメニューを作ったことがありますよ。もちろん嫌われましたね。でもね、料理人なんて、ある意味、おいしいものを作った者が勝ちなんです。

いくら先輩面をして偉そうにしても、「じゃああなたは僕に何を教えるの?」って思っていました。僕は誠心誠意努めましたよ。言われたこと以上に、いろんなことをしました。だから、先輩面するなら、先輩らしいことをしてもらわないとね。年功序列だけで偉そうにするやつはダメだ。そう思っていました。

そんなわけで、僕は賄いをほぼ毎日、作りました。最終的には、オーナーの知人や友人が僕の賄い目当てに店に来るほどになって。献立を書き出したら60ぐらいありましたよ。毎日、自分の仕事を終わらせてから、南京町に買い出しに行って、仕込みをして。しまいには、僕以外、誰も賄いを作らないようになってしまいました。

なぜここまで賄いに夢中になったのか。実は、入ってみたら、自分にとっては店の料理が面白くなかった。もちろん古典的でいい部分もたくさんあったけれど、納得できない部分もあって。

そこで攻めていきたいのに、新しい料理をさせてもらえない。材料を市場に見に行って、旬のものだったり鮮度の良いものとか、これ使いたいなと思っても、「それはイタリアンにない」とか、こういうソース使いたいと提案しても、「そんな料理はしない」と言われて。ずっと同じ料理を作って、つまらないなあと。だから、賄いに没頭していったんですね。

その後、辞められてイタリアに行かれています。現地で学ばれたいと思ったのですか。

山根氏:
そうですね。当時は、僕の周りに留学経験者が多くて。イギリスに留学経験のあるバレエダンサーの方とか、スペイン留学して国際的な宝石鑑定士の資格を持っている方とか。

そういう方から「行って男になってこい。帰って来るな」と。今でこそ当たり前になりましたが、まだ当時はヨーロッパへ修業へ行くのは珍しい時代だったので、尻込みしていた部分もあったのですが。今思えば、よくぞ背中を押してくれたなぁと。良いきっかけでした。

修業する店は決まっていたんですか?

山根氏:
決まってはいなかったです。まずは語学学校で語学の勉強をし、その後、料理学校へ入りました。

ところが向こうの料理学校は、中高生が通う専門学校みたいな感じで。僕は、「ドンナロイヤ」では2番手まで上りつめてましたし、手打ちの麺も作れて、料理にはある程度自信もありました。

そういう中で、14歳ぐらいのクラスメイトと一緒に体育の授業で、海辺の砂場をひたすら走ったりして(笑)。しかも料理の授業が少ししかない上に、レベルは高くない。ここで3年も時間を使えないと思って、1ヶ月ちょっとで辞めてしまいました。

それから、いろんな店に食べに行って、飛び込んで交渉して、当時二つ星(後に三つ星)だったミラノの「グアルティエロ・マルケージ」で修業できることになりました。それ以外にも、もう2軒ほど経験しましたね。

イタリアと日本の修業は違いましたか?

山根氏:
スタジエ(研修生)でのスタートだったので、仕事の責任という意味では、イタリアの方が気楽だったかもしれません。何より、固定のポジションがある日本と比べて、技術があって一目置かれたらなんでも好きにやらせてもらえました。

時間的にきつい仕事はありましたけど、気持ちの上で辛いと感じたことはなかった。仕事の合間で、ヨーロッパのあちこちに遊びに行きましたしね。

スタジエである以上、生活資金も底をついてくると思いますが、その後は?

山根氏:
現地の日本料理店で働きました。それで最終的にミラノで大きなクラブに寿司のカウンターバーを作る話が持ち上がったとき、誰かいないか?と僕に連絡が入りました。

寿司の握り方は寿司屋さんが教えに来てくれるし、3LDKのアパートも貸してくれる、仕入れ用に車も用意してくれ、給与も当時のレートで20万円。悪くない話でした。ただ最低2年契約だったんですね。

当時、ヨーロッパに来たたくさんの日本人を見たんですが、ミラノとかローマに住んでいる日本人は、イタリア人でも日本人でもない。特に何か高い能力を持つ訳ではなく、間を埋める便利屋さんとして生きている人が多く、何者でもないような人々に見えた。

自分自身も、日本料理屋さんで少しかじった程度の寿司の腕前で、日本の文化を背負っていくのか。海外に行くと、外から見た日本というものへの意識が高まって、日本人のアイデンティティが芽生えて行く。そんな中、“何者ともわからない謎の東洋人”みたいになっている人たちを見て、「自分もそうなるのか」と。それは嫌だったんです。

イタリア料理を勉強しに来たのに、こんなところで寿司を握りにきたわけではないと思って、お断りしました。それで日本に帰って来たんです。

PONTE VECCHIO(ポンテ ベッキオ)山根大助

■語学習得とイタリア人のメンタルを掴めたことが、本場の信頼獲得に繋がった。

2年間イタリアにいて、一番勉強になったことは何ですか?

山根氏:
まずは語学。それはすごく大きなこと。言葉ができると、イタリアのテレビ局の取材にも対応できますし、日本で店を出した時も、当時はまだまだ若造でしたけど、イタリアのワイナリーのオーナーとかも、みんなここに来てくれた。言葉ができることで、すごく信頼してもらえるんです。だから、付き合いが広がって、いろいろ気にかけてもらえることも多い。

もう一つはイタリア人のメンタルへの理解。留学中に、イタリア人の友達と毎日のように一緒に過ごしましたから、イタリア人の指向性のようなものを理解できたことが勉強になった。

その国のメンタルというのは、料理に生きてくるのですか?

そうですね。イタリア料理というのは、イタリアの料理をそのままこっちに持って帰って来て再現することではないんです。

食事を作ることって、調理と料理の2つに分かれます。“調理”は国籍がないんです。例えば、揚げるとか焼くとか切るとか、蒸すとか、技術のこと。でも、“料理”は、調理済み素材を組み合わせたり味をつけたり香りをつけたりして、一皿に仕上げるものを指すと僕の中で定義しています。そこには一種の国籍のようなものがある。

素材を最適に調理しただけでは、イタリアの料理とは言えない。どこの料理でもないんです。それをイタリア料理に仕上げるのは何かというと、イタリア人のメンタルなんです。

調理済み素材を、イタリア人のメンタルで再構築すること。組み合わせたり、味をつけたり、香りをつけたり、そこに地方性やパーソナリティが入る。もちろん僕の個性も。

僕というフィルターを通したイタリア人の指向性やメンタルを組み合わせて出た答えが、「ポンテベッキオの料理」になるのです。

だから、日本人だけでなく、イタリア人が食べた時にも、「このイタリア料理はおいしかった、見たことがない」と言ってもらえる料理を目指さないといけない。

そう感じてもらうために、具体的にどんな仕掛けを?

山根氏:
例えば、トマトのカプレーゼ。イタリア人がそうするからといって、闇雲にトマトを切って、モッツァレラを合わせて、オリーブオイルをかけて完成、それを提供するのは、一見イタリア料理を忠実に守っているように見えて、そうではない。

イタリア料理なりのもっと完成度の高い、材料をリスペクトして、最適に調理された料理にしたいのです。

果たしてそれが一番おいしい食べ方なのか?モッツァレラは牛乳が固まってできたミルキーでジューシーなチーズ。だったらなぜ、酸味のあるトマトと冷やして合わせるのか?

ふわっと温めて、酸で締めずに、ミルクに浮かべたらどうなるんだろう。モッツァレラが口に広がって、食材の旨みをもっと感じられるんじゃないかと。それが、最適調理となる。

だから僕の作る料理は、実はほぼイタリアにはないもの。でも、イタリア人も食べたことがないけど、イタリア人においしいと言われなければならない。目指すところはそこなんです。

これまでの料理の歴史の中で、セオリーと言われるものには、すごく正しいものと、実は全然違うというものもある。それを自分たちで見極める、あるいは新たに発見してやらないといけない。器具も変われば調理も変わります。だから僕は、器具も食器も自分で作る。食器は今まで50種類ぐらいは作りました。今も開発中ですよ。

凄い情熱ですね。さて、日本に帰国して、ポンテベッキオを開店されて。そこから順風満帆だったのでしょうか?

山根氏:
しんどかったですね。時代も円高不景気で、バブルに入る前。3年目ぐらいから忙しくなって採算が合うようになってきましたが、そこに至るまでは、毎日辛くて、何を食べてたのか全く記憶にないです。

なにせ若造ですから、自分が未熟な状態でスタッフを雇っても、簡単についてきてくれないですし、同年代だと潰し合いになって、すぐ辞めてしまう。やりたいことを主張しても、理解してもらえない。

お金もないし、お客さまもこない。そういう問題が山積みの状態であっても、なんとかスタッフを説得して留まってもらって、認めてもらわないといけない。辛かったですね。5年ぐらいかかってようやく、店としての体をなしたように思います。

苦しい時期から脱した転機は?

山根氏:
専門料理誌に、結構な皿数の料理を特集してもらえたり、トマト特集などで掲載してもらえたことですかね。それまで専門書籍は買うばかりでしたから、自分が載る方になったんだとびっくりしました。

それを契機に、いろんな雑誌が取材してくださって。当時、大阪の洋食の店は全国誌に載ることがあまりなかったので、余計に注目いただけた。そのあたりから、飲食志望の方に“仕事をしたい店”として見てもらえるようになった。3年目以降の話です。

人が安定して辞めない地盤ができたのは、10年経ってからかな。最初はアルバイト入れて4名で始まった店が、今で優に100名を超える店へと成長しました。

PONTE VECCHIO(ポンテ ベッキオ)山根大助 厨房

PONTE VECCHIO(ポンテ ベッキオ)

お問い合わせ
06-6229-7770
アクセス
大阪市中央区北浜1-8-16 大阪証券取引所ビル1F
地下鉄堺筋線・京阪線「北浜駅」より徒歩1分
営業時間
ランチ11:00〜14:00(L.E.)
ディナー18:00-21:00(L.E.)
定休日
不定休