■お客様の反応がダイレクトにわかるから寿司屋に
そもそも料理の世界に入られたきっかけは?
黒杉氏:
僕は広島の漁師の家に生まれたんですが、高校時代に中華料理店でアルバイトをしていて、“料理って面白いなぁ”と思って、料理の道に進むことにしました。
それで学校からいろんな店に会社見学に行ったんですが、当時はオープンキッチンなどなくて、和食も中華も洋食もパティシエも厨房内の仕事だった中で、寿司だけがカウンターに立ち、お客様の前で調理ができると気付いたんです。僕は目立ちたがりなので、寿司屋になろうと決めました。
■先輩が寝てから魚屋で勉強した修業時代
それでは、高校を卒業後すぐにお寿司屋さんで修業されたのですか?
黒杉氏:
はい、「株式会社寿司田」という、全国展開している江戸前寿司の会社に就職しました。阪神タイガースの道頓堀ダイブにあこがれてたので、大阪の店舗配属を希望したんです。
大阪に来られたきっかけが阪神タイガースだったとはびっくりです。……夢の道頓堀ダイブはできたんですか?
黒杉氏:
それが、実は入社した年に阪神が優勝したので、すぐ叶いました。しっかりと道頓堀ダイブもやりました(笑)。
凄いですね!それで今も大阪にいるとは、縁とは面白いですね。……さて、寿司の世界は特に厳しいイメージがありますが、どんな毎日だったのでしょうか?
黒杉氏:
とにかく「同期に負けたくない」と思ってました。それで入社当時は寮生活だったんですが、仕事が深夜2時に終わって寮に帰ってから、先輩が寝るのを待って朝5時くらいに寮を抜け出して。そこで、会社の取引先の魚屋で勉強させてもらったりしていました。
若いとはいえ、ハードなスケジュールですね。魚屋での勉強は、ご自分から志願されたのですか?
黒杉氏:
最初に冗談半分で「行かせてもらえませんか?」と聞いたら、「いいよ」と言っていただけたんです。それで毎日行っていたら、「体壊すから週半分にし」と言われたので、週の半分は通い続けました。そこで水洗いの方法や鱗の取り方、魚を選ぶときの基準とか魚の目利きなどを教えてもらって。仕入れにも連れて行ってもらいましたね。
高校を卒業したばかりで、魚屋で勉強させてもらおうと考えられるとは、ガッツが凄いですね。会社では、同期は何人くらいいらっしゃったんですか?
黒杉氏:
同期は全国で100人、関西が10人くらいでしょうか。
当時は両親が漁師である家業を継げ、ということで料理の道に入ることに反対していました。それで、「5年で結果を出せ。3年は帰ってくるな」と言われていたので、逆に奮起した。覚悟が違ったのかもしれませんね。
魚屋での勉強のおかげで、22歳で主任、24歳で店長代理と、会社の資格試験も早く昇格できました。ただ、店長の資格は持つことができたけれど、自分が店長をするよりも好きな人の下で働きたい。ということで、会社員時代はずっと二番手でしたね。
■大好きな先輩から「損して得取れ」の経営姿勢を学んだニューオータニ時代
黒杉さんが二番手指向だったのは意外です。そこから、独立を意識されたのはいつ頃ですか?また、独立するまでにどんなことを学ばれたんでしょうか?
黒杉氏:
24歳のときにスポンサーから「独立しないか?」と言われたのがきっかけです。その時に、面倒見も良くて大好きな先輩に相談したら、「お前は技術と話術はあるけど商売の仕方は知らないから、あと3年俺の下で働け」と言われた。それで、その先輩が店長をしていた、「乾山 ホテルニューオータニ」大阪店に移りました。
そこでは、“損して得を取れ”という経営の発想を教えてもらいました。
「店の利」ばっかりを考えるとお客様も気付く。そういう店からは遠ざかるもの。けれど、食材の組み合わせなどを工夫して、薄利でもスタッフもお客様も楽しめる店だと、ヒマになった時にお客様がお客様を呼んでくれたりする。「今日予約入ってないんやったら、だれか呼ぶわ」とか、「4時までに電話をくれたら必ず行くから」と言ってくださる常連さんもいらっしゃるようになる。これはお店をする上で、非常にありがたいことです。
実は、2ヶ月に1回来て大金を落としてくれるお客様よりも、1ヶ月に2回とかコンスタントに来てくださるお客様を多く持つ方が、店は安定する。同じ売上げでも、そこが違うんです。
そんなことを学びながら、仕事をしていました。独立の時期は、自分と干支が同じの子が新人として入ってくる30歳になるまでにしようと決めました。だから、29歳になったときに会社とある約束をしました。
約束とは?
会社には迷惑をかけずに365日休みなしで働く。その上で、後輩の育成に力を入れる。だから、1年後に辞めさせてください、と。
約束通り、休みなしの日々を送った後に、30歳で独立しました。
なんと、有言実行ですね!